鹿島美術研究 年報第30号
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研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程  森 橋 なつみ本研究は、社会的文脈や人的交流によって制作の場をはなれ、画家や作品のイメージが受容側の背景にしたがって確立され、展開してゆくという観点から、明代宮廷における「顔輝派」の形成と展開を考察し、起点となる顔輝の実相を遡及的に明らかにすることを目的とする。従来、顔輝は後世の作品イメージから広く知られる画家である一方、真筆とされる作品の少なさや同時代資料の不足から実態がほとんど不明であった。しかしながら、すでに拙稿(2012年)で触れたように、特定の時代や場、人脈など画家をとりまく諸状況から見なおすことによって、顔輝が郷里である廬陵に根ざし、周囲の知識人との深い関係の中で制作を行っていたことが少しずつ明らかになってきた。研究者は、これまで同時代の文脈から作品研究をおこない、廬陵という場を中心とした知識層のあいだで顔輝が高く評価される背景に、南宋末元初という異民族王朝への交替期における、漢人の遺民観が作品に重ねられている可能性を想定してきた。ただし、同時代資料は作品・文献ともに十分に残っておらず、現段階においては明確な結論を留保せざるを得ないが、本研究の主眼である明時代における顔輝派の形成と展開を考察することによって、相互補完的に先の研究の実証性を高めることが期待される。すなわち、漢人による再統治を果たした明時代において、宮廷画家によって顔輝風の仙人像が多く画かれたことと、廬陵地域を出自とする多くの江西士大夫が宮廷文化の中心にいた事実との関係性が明確に示されることによって、廬陵において顔輝がいかに重要視されてきたのか明らかになる。さらに、明時代の顔輝派の研究は、南宋末元初において一地域の画家であった顔輝が、如何にして東アジア世界に広く影響力をもちえたのか、一つの回答を呈示する点できわめて意義深いものである。本研究による成果は、中国絵画の積極的な研究が進められている諸外国の研究者にとっても大きな関心事である。顔輝派の形成と展開について明らかにすることは、中国絵画史における顔輝イメージの広がりのみならず、日本や韓国の様相と相対化されることによって、各々をより正確に位置づけていくための一つの基準となる。本研究が完成された時には、これまで絵画史に閉じられがちであった絵画表象に関わる問題が、関与する知識人の存在を認めることによって、社会史や政治史、思想史などに横㊷ 明代顔輝派の形成と展開

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