鹿島美術研究 年報第31号
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研 究 者:大津市歴史博物館 学芸員  寺 島 典 人本研究の目的としては、仏師快慶と行快工房の現存作例について、その耳の造形を調査・分類していくことで、銘文の有無とは別に作風から、①快慶本人が造像を行った像②快慶本人が造像を行うも、弟子が多く手を加えている像③快慶が造像したものを参考に、弟子が造像を行った像などのグルーピングを試みるものである。そして、これら①〜③の像のすべてを「快慶工房の作」であり、「快慶の作」と呼ぶことの可能性を探るものである。現在の美術史では、作者本人が最初から最後まで制作に携わることを前提として作者論が語られる。つまり、快慶一人で制作したもののみ、「快慶作」の作品と考えられ、弟子や外注の手が加わると「快慶作」ではなく「快慶工房作」もしくは「快慶周辺の作者の作」と判断される。ところが、鎌倉時代の造像において、仏師本人が一人ですべてを造像するという事の方がむしろ少ないのではないかと想像される。というのも、鎌倉初期の寺院復興が盛んな時期であったため、大量の発注・納品をこなさなければならなかったためである。つまり、運慶や快慶が一人で像を造るという余裕はないのである。そのために工房内である程度分業され、オートメーション化していたことはよく知られている。想像するに、快慶の主催する工房に注文が入り、その造像を工房主催者の采配(上記、①〜③などの状況)で行われ、依頼主には「快慶の作」として納品され、依頼主も「快慶の作」として享受するというイメージである。現在、作銘文などによって快慶作と認められている像が約40件、そして行快作とされる像が7件ある。さらに銘文がないものの、快慶工房の作と考えられる作例は、筆者が知る上では60〜80件ほどある。本研究では、これらの像すべてに「快慶作(=快慶主催の工房作)」である可能性を探り、そう呼ぶべきではないかと考えるものである。そのためにも、イメージ的に「似ている、似ていない」という判断ではなく、より詳細に快慶やその弟子たちの造像上の癖を抽出し、それを判断材料として使うことが出来たならば、快慶の活動の実態について近づくことが出来ると考える。そして、いまだ解明されていないことが多い、複数の仏師を抱えていた鎌倉前半の快慶工房の造㊼ 耳の造形に見る仏師快慶・行快工房 ─耳の近似と相違が語るもの─

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