鹿島美術研究 年報第31号
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た作品が多数見受けられ、それらは一般に「子ども絵」と称される。子どもを主題化することの多くない日本美術において、このジャンルは特殊な位置にあると言える。これまで、子ども絵は、唐子図などの中国絵画からの影響により誕生したと漠然と語られることが多く、浮世絵師たちが直接、あるいは間接的にどのような図様に影響を受け、作画するにいたったのか詳細な分析がなされてきたとは言いがたい。そこで本研究では、宝暦から寛政頃の子ども絵初期作品を取り上げ、それらが生み出された背景には何が考えられるのか「和」と「漢」という二方向の事象から丁寧に検討していくことを目的としたい。まず、17世紀から18世紀前半にかけて繰り返し多くの狩野派絵師によって描かれ、版本としても流布した、唐子図のパターンを整理する。子ども絵の中には、唐子図にしばしば登場する型が日本風俗に翻案されて描かれる例を見出すことができる。浮世絵師が狩野派作品から直接影響を受けたということではないが、浮世絵師間に共有されるイメージがあったことが了解されるのである。このように、子ども絵作品と唐子図像を比較検討することにより、浮世絵師が積極的に採り入れた子ども図像の典型を明らかにしていくことが重要となる。また、子ども絵の中には、図様を上方の絵師による絵本から借用しているケースが多々認められ、その傾向は子ども絵というジャンルが形成される時期と重なっている。浮世絵師たちは、四季や12か月に因んだ子ども風俗を描いた上方絵本、とりわけ西川祐信の『絵本大和童』(上巻、享保9年刊)や『絵本西川東童』(上中下巻、延享3年刊)などの墨摺絵本を盛んに絵手本として使用していることが分かる。このことからは、従来語られてきた「漢」という一方向からの事象が子ども絵というジャンルを成立させたとは考えにくく、月次などの日本の伝統画題に見られる子ども図像の影響も考慮に入れる必要があるだろう。以上のように、子ども絵は、「和」と「漢」からの複合的な影響下のもと生み出されたジャンルであることを明らかにしていきたい。吉祥画題である唐子図やめでたさを強調した月次の趣向を持った作品から浮世絵師たちが影響を受けていたことが明らかになれば、自ずと子ども絵が誕生や健康を願う吉祥画としての役割を担って登場してきたことも明らかになるだろう。そして前述したように、従来の浮世絵における子ども絵は、唐子図の影響を受けて、次第に親しみやすい日本の子どもの姿に置き換えられるようになったと漠然と言われ

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