研 究 者:鳥取大学 地域学部附属芸術文化センター 専任講師 本研究の目的は、雑誌メディアの分析を通して、クレメント・グリーンバーグやハロルド・ローゼンバーグといった美術批評家たち、そしてアメリカン・アブストラクト・アーティスト(AAA)、シュルレアリスト、抽象表現主義の作家たちが、1940年代のアメリカにおいて美術の言論空間をどのように構築していったのかを明らかにすることである。そのうえで特に手がかりにするのは、「リトルマガジン」と呼ばれる雑誌メディアである。第一に、美術批評家グリーンバーグと抽象表現主義の作家たちとの距離感はどのようなものであったかを明らかにすることにある。同じ『パーティザンレビュー』で美術担当であったL・K・モリスとグリーンバーグでは、抽象芸術を擁護する点を共有しつつも、ヨーロッパのキュビスムの影響の色濃かったモリスに対して、グリーンバーグはその後のアメリカで台頭する抽象表現主義の画家たちと早くから面識があった点において異なっていたといえる。しかしながら一方でグリーンバーグは、ハロルド・ローゼンバーグやニコラ・カラスほど美術家たちのコミュニティに近しいとはいえなかった。その姿勢を反映するように、グリーンバーグが作品の形式的観点からの分析に終始したのに対し、抽象表現主義の作家たちは「リトルマガジン」を舞台としながら主題の問題を共有していった。第二に、抽象表現主義の画家たちとシュルレアリストたちとの関係性はどのようなものであったかを、「リトルマガジン」の分析を通じて具体化することにある。「リトルマガジン」はそもそもシュルレアリストがアメリカにもたらした文化であったといえる。アンドレ・ブルトンをはじめ、英語を解さないシュルレアリストたちにとって、1940年代のアメリカの「リトルマガジン」について、『パーティザンレビュー』に関する研究はすでに数多く存在し、また近年、『ビュー』や『タイガーズ・アイ』についての個別研究も発表された。しかしながら、抽象表現主義の台頭において「リトルマガジン」がどのような役割を果たしたのかについては、いまだ十分に掘り下げられていない。この問題に焦点をあてることが重要な意義をもつのは、次の二つの理由からである。筒 井 宏 樹■ 1940年代アメリカにおけるリトルマガジンと美術の関係についての研究
元のページ ../index.html#113