研究発表者の発表要旨 1.東アジア的観点から見た『信貴山縁起絵巻』の研究 発表者:名古屋大学大学院 文学研究科 教授 伊 藤 大 輔こうした暗く殺伐とした世界観を持つ二作品に対して、「信貴山縁起絵巻」はみじんの暗さもない。仏教説話画ではあるが、仏教的な無常観とは無縁な明るさが絵巻全体を貫いている。「信貴山縁起絵巻」の特色は、人間や社会の否定的な側面を取り上げないことにあると言える。その説話構造を検討してみると、「飛倉巻」において財産を軸とした命蓮と長者の互恵関係が語られ、「延喜加持巻」において健康を軸とした命蓮と帝の間の互恵関係が語られる。信貴山の力によって与えられる二つの恩恵は、健全な現世主義と言うべき姿勢に貫かれており、それを享受する喜びに満ちあふれている。「尼公巻」は「飛倉巻」と「延喜加持巻」における二つの恩恵の上に立って両者を統合する位置にあり、長寿の徳と家族愛が信貴山によってもたらされる。前二巻が在俗の境地で語られているとすれば、「尼公巻」は脱俗の境地に至っていると言って良いであろう。「信貴山縁起絵巻」では、人々は世界と親和的であり、望めば願いの叶うユートピア、神仙境として世界が描きだされていると言えるであろう。そうした神仙境としての世界は、説話構造においてだけではなく、視覚的にも表現されている。第一に、「延喜加持巻」における剣の護法が天空を疾駆する場面がそれである。そこでは剣の護法の乗雲が直線的な長い尾を引いて描かれるという印象的な場面となっている。この雲そのものを主題としたような絵画表現は、中国の漢代の馬王堆から出土した黒地彩絵棺「雲気神獣図」に遡りうるものであり、雲気文の伝統の「信貴山縁起絵巻」は、「伴大納言絵巻」、「鳥獣戯画」とともに平安末期における線描主義の絵巻物を代表する作品としてよく知られている。しかし、説話の志向するところを比較すると、前者と後二者では大きく異なっている。「伴大納言絵巻」は、陰謀を主要なモチーフとし、火事に始まり、喧嘩が説話の転換点に位置して、陰謀に破れた人物の流罪で説話が完結する。暗く殺伐とした要素が説話の全体に一貫している。「鳥獣戯画」を代表する甲巻においては、動物たちが肉体的、もしくは知的に相争う姿を描いており、ここにも意外な暗さが漂っている。
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