一方、ジャンル上は後期に属する板橋区立美術館蔵の「大小の舞図」は、折烏帽子、太刀、御幣を付け、扇を手にした典型的な〈大小の舞図〉の扮装を示しているが、面貌からはより女性的な優美さが感じられる。この変化を初期作品と比較してみれば、時代が下るにつれて、初期の「阿国の後継者」としての姿が忘れ去られ、数珠や印籠、巾着などの阿国の持物が省略されるようになるだけでなく、雨乞い歌など、阿国が持っていた呪術性も排除され、〈美人画〉としての観賞性の高さに重点が移っていった様子がうかがわれる。結論的に言えば、〈大小の舞図〉は、初期作においては、「阿国の後継者」としての姿が強調されていたが、次第にその意味は変化し、〈寛文美人図〉の一ジャンルに取りこまれていったと考えられる。このようなジャンルの歴史的変遷は、芸能史研究の成果を踏まえた上で、絵画史の流れのなかに再度作品を位置付け直すことで見えてくるものである。本発表では、〈大小の舞図〉というジャンルの歴史的変容に焦点を絞ったが、こうした芸能史研究を取り込んだ絵画史研究という複合的アプローチは、この分野の研究を深化させる上できわめて有効であると思われる。幣を負う、白拍子の扮装を基にした通例の姿で描かれている。ただし、首から懸けた数珠や、腰に付けた印籠および巾着などの提げ物は、典型的な〈大小の舞図〉には登場しない。この提げ物は、先行する「阿国歌舞伎図屏風」(出光美術館蔵)や「阿国歌舞伎草紙」(大和文華館蔵)などとの類似から、阿国歌舞伎の人気演目であった「茶屋遊び」の持物を意識的に取り入れたものであると考えられる。また、大分の笠和郷に伝わる雨乞い歌との類似から、図中の賛は雨乞い歌を元にした小唄であると推測される。雨乞い歌を取り入れた歌謡は、阿国歌舞伎の舞台でも歌われていた。つまり、千葉市美本をはじめとする初期の〈大小の舞図〉は、阿国の祖型的イメージを踏襲し、〈舞〉が古くから持つ神聖なイメージや、白拍子に繋がる呪術性を内包した若衆たちの姿を捉えたものではないか、という仮説を提示したい。
元のページ ../index.html#36