研 究 者: 東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程パリ第4大学大学院 博士課程 齋 藤 達 也19世紀フランスの美術批評家エルネスト・シェノーの日本美術論の重要性は広く認められてきた。先駆的に日本美術の本質を議論したシェノーのテクストは、今日の研究において頻繁に言及される。しかしながらシェノーと日本美術の関係それ自体が問われることは稀で、そのテクストが実際に持っていた歴史的意味合いが顧みられることはほぼなかった。そこで本研究は、シェノーという人物の著述活動をより総合的に検討し、同時代の文脈の中に置き直すことで、この批評家と日本美術との関係を明らかにする。1867年のパリ万国博覧会への日本の公式参加を契機として、フランスにおける日本美術への熱狂はより大きな現象へと発展し、日本美術を考察する論考の数も増えてゆく。ジャポニスムのまさにこの初期段階で、重要な記事を執筆し(1868年)、公衆に向けて講演を行った(1869年)のがシェノーであった。その論考の中でシェノーは早くも日本美術の本質を捉えようと試み、「非対称性」「感覚の遠近法」「触覚の美学」といった言葉を生み出した。1878年のパリ万博に際してもシェノーは、パリの日本美術熱を描き出す論文「パリにおける日本」を残す。こうしたこともあって、シェノーは日本美術愛好家として捉えられることが多い。しかしながらシェノーによる日本美術論を真に理解するには、美術批評家、美術史家そして産業芸術振興の推進者といった役割を考慮に入れる必要がある。シェノーは各国の美術の独自性を保持すべきとして「芸術におけるナショナリズム」を唱えており、万博開催などによって各国の芸術様式が均一化する一種の「コスモポリタニズム」には反対の立場であった。それゆえに極東において独創的な芸術を実現した日本を評価し、範とすべきだと考えた。一方でシェノーは産業芸術の振興に取り組んだ団体、産業応用美術中央連合の一員であった。19世紀半ばからフランスでは、自国がイギリスの産業芸術に遅れをとっているとの危機感が広く共有され始め、その改善のための動きが現れる。そうした動きを体現していたのが、1864年に設立された中央連合であった。シェノーによる日本美術論はこの流れの中で、フランスの装飾家が日本美術の装飾原理に学び、より独創性のある④ エルネスト・シェノーのジャポニスム─芸術におけるナショナリズムと産業芸術振興をめぐって─
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