人物と一致させようとする解釈が数多く提案されてきた。たとえば石棺長辺の一面「大王の戦闘場面」に登場する右端の騎兵は、アレクサンドロス大王と対にあたる位置や構図で表されている点から、アレクサンドロス大王の将軍であったペルディッカスやアンティゴノスらの名前が挙げられてきた。しかし図像学の観点からは、彼をどの将軍とも特定しうる要素は見られず、言及を避ける研究者も少なくない。近年の研究においては、実際の美術作品発注の文脈をより現実的に想定し、地方的な美術との影響関係に関して検証する試みがなされている。それに伴い Schefold や Cohen らに代表されるように場面や登場人物を特定せず、主題を象徴的な表現と見なす研究も認められるようになってきた。しかしさらにその先に制作者の意図や伝統的な美術からの影響を探る研究は、未だ十分になされているとは言えない。本研究では以上の問題に対して、アレクサンドロス大王に関連する、とりわけ古代マケドニア美術の特質への理解を深め、またヘレニズム時代の葬礼美術における彼の美術と、古代オリエント美術からの影響とを比較し構造的に捉えることによって、個々の作例が持つ土着の伝統美術の要素を浮かび上がらせることが可能になると考える。研 究 者:MIHO MUSEUM 学芸員 岡 田 秀 之東海道の宿場町である原宿の素封家植松家には、街道に面した名園「帯笑園」という私設の庭園があり、花卉名木を集めた名園として知られていた。この帯笑園は、原宿本陣に隣接していたため、参勤交代で往来する大名や江戸へ向かう公家をはじめとする多くの文人墨客が訪れ、その際に揮毫した詩画が多数残されていることでも知られている。芸文に親しむことを好んだ植松家の当主のうち、特に植松家六代季英(号蘭渓、1719〜1809)は、当時京で活躍していた円山応挙(1733〜95)らの絵師と親しく交流しており、その子七代季興(号孚丘、1774〜1831)は、天明6年(1786)13歳のときに、円山応挙の弟子となり、上京のたびに応挙宅へ滞在し、絵の修行に励んだことが植松家の史料によって確認できる。現在数点確認されている応令が描いた作品は、いずれも人物図であり、応挙様式の影響を受けていたことが窺える。⑨ 沼津植松家に伝わる円山四条派の画稿に関する研究
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