鹿島美術研究 年報第31号
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研 究 者:関西大学大学院 東アジア文化研究科 博士課程後期課程 本研究は、上方の絵師岡田玉山(生没年未詳)の画業を考察するとともに、歌川国芳(寛政9−文久元年[1797−1861])を中心に、江戸で活躍した浮世絵師の作品への影響を見出し、19世紀における江戸と上方の出版文化の交流を美術史の視点から明らかにすることを目的とする。上方絵師の江戸への影響は、18世紀半ばに橘守国や大岡春卜などによって刊行された絵手本の存在が注目されてきた。また、国芳を含め、葛飾北斎や歌川国貞などの同時代絵師にも、それらを参考にして描いた作品を確認でき、江戸と上方絵師との交流は、兼ねてから指摘されてきた。しかし、18世紀末から19世紀初めに、上方読本の挿絵を多く制作した玉山は、寛政9年(1797)編刊『絵本太閤記』(全7編)、文化2年(1805)刊『絵本玉藻譚』などの読本、あるいは寛政6年(1794)『住吉名勝図会』の名所図会の挿絵を描いた絵師として知られるのみで、その作品の江戸の絵師への影響は多く言及されてこなかった。そこで、はじめに玉山の読本挿絵、版本挿絵などを網羅的に考察し、画風の変遷、および中国版本や西洋画法との関わりについて明らかにする。玉山は『唐土名勝図会』(文化3年[1806])を制作する際に、木村蒹葭堂の蔵書を参照していたとされ、その際に多くの舶来書を実見する機会を有していたと考えられる。つまり、玉山の交遊関係を明らかにすることで、彼の画風の変化との関連を確認できるのではないだろうか。次に、19世紀初めに、江戸で活躍していた浮世絵師への影響を見出していく。とりわけ、文政期(1818−29)以降、「武者絵」の分野を確立する歌川国芳は、玉山の読本挿絵を参考に作品を制作していたことが指摘されている。両者の作品を検証することによって、さらに典拠を見出せるかもしれない。また、国芳は西洋画法や「水滸伝」、「三国志演義」などの中国説話にも関心を持っており、玉山の挿絵は十分に利用価値のあるものであったといえよう。図様の類似だけでなく、表現方法や構図などに着目し、彼の画風との関わりについても触れていく。加えて、国芳が私淑していたといわれる、葛飾北斎についても、比較対象に含みた中 山 創 太⑫ 岡田玉山研究 ─歌川国芳、葛飾北斎への影響をめぐって─

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