い。北斎は、文化期に盛んに制作した読本挿絵や絵手本を制作しており、それらを通じて、上方絵師との交流が持たれていたことは既に指摘されている。しかし、北斎の読本挿絵をみたとき、玉山の挿絵を参考にして描いた挿絵も散見され、「北斎から上方絵師へ」という図式は、より複雑で、相互的なものであったと考えられる。両者の作品をみていくことで、新たな影響関係を見出せるのではないだろうか。上記のことから、上方における読本制作の中心であった、玉山の位置付けを再考するとともに、上方と江戸の浮世絵師との交流を明らかにできるはずである。また、諸外国の文化に関心を示していた国芳や北斎に、玉山は間接的ではありながらも、それらを伝えるパイプ的な役割を果たしていたことになる。19世紀の浮世絵史における諸外国文化の受容を考える上でも、玉山は重要な位置を占めていたといえよう。研 究 者: 長崎県美術館 学芸員早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 豊 田 唯本研究は、これまで筆者が継続してきた「セビーリャ、サンタ・カリダード聖堂研究」の一環をなす。セビーリャのサンタ・カリダード聖堂は、1645年にサンタ・カリダード兄弟会の本拠として建設が始められた単廊バシリカ式の聖堂である。その内部装飾は1666年以降、会長ミゲル・マニャーラの主導により断続的に進められ、1674年の献堂時、堂内の身廊南北両壁には計10点のバルトロメ・エステバン・ムリーリョ(8点)とフアン・デ・バルデス・レアル(2点)作の絵画が掛けられ、内陣の奥壁にはベルナルド・シモン・デ・ピネーダ設計の主祭壇衝立がそびえていた。その作品群はおおよその先行研究において、単一の構想に基づく「連作」として捉えられている。しかしながら筆者の推測によれば、それら計11点の絵画と祭壇衝立は主題や制作背景の相違により二つのグループに分けられる。つまり、6点のムリーリョ絵画と主祭壇衝立は聖堂装飾の一環として当初から制作を進められていたのに対し、各2点のムリーリョ作の聖人画とバルデス・レアル作のヴァニタス画は、その5年以上後の1672年に堂内の余剰壁面を利した新たな美術装飾として描かれたのである。⑬ セビーリャ、サンタ・カリダード聖堂研究─ムリーリョの「七つの慈悲の業」連作をめぐって─
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