鹿島美術研究 年報第31号
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像の補修時(1598年)に徳悦が彩色を担当し、あるいは南禅寺三門において天井画を探幽、柱などの装飾を徳悦が描く(1628年)ということが報告されている。このように彼らは仏像や建築の彩色において、仏師、狩野派など他分野、他の画派と共同制作をする場合があった。肖像画は、そうした共同制作とは無縁であろうが、肖像画にまつわる人間関係をみるなかで、同時代の他の作家との関わりがみえてくることはあるだろう。実際、たとえば隠元像を徳応、貞綱(徳栄)も、狩野派、黄檗の諸画家も描いている。画家の社会的地位、受容者の希望、都と地方、さまざまな事情が関わってのことだろうが、肖像画をめぐってそれらを探ることで、当時の画壇における彼らの役割が示せればと思う。それは他の画派研究にも有益であろう。二つに近世肖像画における絵仏師的様式の認識である。徳悦筆の肖像画に、長谷川等伯の初期の肖像画と近しい技法、表現をみせるものがある。等伯の画業が絵仏師として始まったことを思えば当然ともいえるが興味深い。等伯との比較などを通じて絵仏師の肖像画の基本的特性といったものをおさえることで、徳悦、徳応、貞綱(徳栄)のいずれかと比定できなくとも、少なくとも絵仏師の作という括りで認識できるようになる肖像画は少なくないと考える。三つに中世から近世初期にかけての絵画様式の変化である。徳悦、徳応、貞綱(徳栄)が画派と呼べる組織をなしていたかどうかは現時点では不明であるが、同じ系列の画家とはみなせ、一定の様式を共有してもいる。ただし、徳悦は十六世紀末にその活動がみられるように、やや古様で、表情もかたいといった傾向がある。貞綱(徳栄)は明るめの色感、多少の肥痩をつけたニュアンスのある線描などによる柔和で華やかな画風である。徳応はその中間的な様式といえる。すなわち他の資料からも三人のうちもっとも活躍年代が下がるとみなせる貞綱にいたって、江戸時代ならではの新しいスタイルが確立されたといえる。貞綱は、狩野派でいえば探幽にあたる新時代の名肖像画家とみなせる。探幽が新時代に対応した新様式を確立したのは周知のことだが、同様の動向が絵仏師の肖像画にも認められることは、それが探幽の影響、時代の風潮によるにせよ、十七世紀の画壇全体を見渡すにあたって看過できない点である。

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