鹿島美術研究 年報第31号
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第285窟の構造とその機能について、主に先行研究は二説ある。一つは、「南北壁の八つの小洞窟」および「西壁に僧形坐禅像を安置すること」を証拠とし、石窟の機能を坐禅修行に求める説である。一方、「石窟中央の戒壇」を証拠とした説では、第285窟を受戒の石窟と位置づけ、本尊と両脇侍の坐禅僧が「三師」(本尊の教授、両脇侍の得戒と羯摩である)を表すと指摘している。しかしながら、東洋文庫所蔵の古写真によれば、石窟中央は「戒壇」ではなく、本来は「中心塔柱」石窟であったと考えるべきである。「中心塔柱」石窟は、仏教の東漸に従って、インドから西域に渡り、中国内陸に伝来した。伝来の過程で各地方の文化と習合し、「中心塔柱」の形式が変容し、その意味と宗教的機能もまた種々の様相を呈したことが想定される。本研究は、中国北朝各地域の「中心塔柱」石窟との比較を視野に入れ、「中心塔柱」が第285窟にある意味とその宗教的な機能を研究する。さらに、第285窟各壁の造像の主題、および供養者の信仰を踏まえることで、第285窟本来の有り様を取り戻すことができよう。第285窟の造営者について、先行研究には「李君修莫高窟仏龕碑」の内容(東陽王は莫高窟で大きな石窟を一つ造営したと)より、西魏東陽王の元栄と指摘した研究があったが、元栄説を否定する説も多く、造営者の定説をみない。第285窟の本尊の両脇侍は、菩薩像の替わりに僧形坐禅像二体が安置されている、それは第285窟の特徴と指摘されており、石窟造営に高僧が関与した可能性が高いと考えられる。北壁と東壁の「供養図」九面には、先導者の比丘僧と俗人供養者の名前があるため、造営者が俗人の可能性もあると考えられる。俗人供養者の姓氏が多く、服装にも胡服と漢服と研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期  李   銀 廣仏教および仏教美術は、古代商人の活動(シルクロード)に従って、西域各国を経由させ、中国に伝来された。外来宗教としての仏教は、西域各国の宗教文化と習合していた。その後、中国内陸に東漸し、中国各地方の旧信仰(道教と儒教を主とする)と再度融合し、現在の中国式の仏教となった。美術作品も中国的な仏教美術となっている。敦煌莫高窟は中国内陸と西域各国と中継地に位置し、仏教東漸の過程における重要な場所である。その中の第285窟は、造像の題材や、壁画の表現などがきわめて豊富なので、莫高窟中最も重要な石窟である。⑳ 敦煌莫高窟第285窟の研究 ─石窟の構造と造営者を中心として─

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