鹿島美術研究 年報第31号
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それぞれに着用しているため、第285窟の俗人造営者が一家族ではなく、複雑な関係とみられる。このような供養者の組み合わせは、中原地方の「邑社」と類似している。「邑社」とは、僧侶供養者の集団(法社)と俗人供養者の集団(邑)との総称である。両者は仏教に対しての理解も違うし、造像への意図も違うため、造像のモチーフが豊富な題材を反映している。本研究は、第285窟西壁「坐禅僧」と北壁「供養図」などを総合的に分析した上で、中原の「邑社」造像の研究に従って、第285窟の僧侶造像と俗人造像の関係を考究する。それによって、第285窟の複雑な造営者の身分の解明も期待される。さらに、敦煌の造像集団と中原の「邑社」との関係を解明することにも注目し、広く西域石窟の造像者の研究にも影響を与えるものと期待される。研 究 者:池上本門寺 管理部 霊寶殿担当主事  安 藤 昌 就木挽町家は2代常信以降御用絵師の最上位として狩野一門を率いたが、4代栄川古信と浜町家から養子として木挽町家の家督を継いだ5代受川玄信の早世により、木挽町家は一時期弱体化したと言われる。しかしながら『有徳院殿御実紀附録』を見る限り、紀州徳川家出身で画に極めて造詣の深い8代将軍吉宗の信頼を一手に受けたのは木挽町家であり、特に栄川古信は、吉宗自身より画を教授されたと記録されるなど吉宗に寵愛された。木挽町家と吉宗の関係は、吉宗が常信に画の教授を請うたことに始まるのであるが、その背景の一因として、菩提寺を同じくする事から生まれる信仰面での繋がりもあるように思われる。狩野家菩提寺である池上本門寺は、吉宗が出自した紀州徳川家の菩提寺でもあり、紀州藩祖徳川頼宣生母養珠院、頼宣室瑶林院らにより醸成された紀州家の熱心な法華信仰の中で育った吉宗は、探幽の画を「南無妙法蓮華経の境に入れり」と表現する程の法華信仰者であった。吉宗に画を教授した常信・周信のみ、狩野家累代が葬られている日蓮荼毘所周辺を離れ、本門寺主要伽藍を挟んで反対側に元禄期以降形成される紀州徳川氏関係墓域の、特に吉宗側室(9代将軍家重生母)墓所近隣という特別な場所に葬られていることは、吉宗の関与を想定させるが、この様な木挽町家が吉宗の信任を得ていた事実は、古信早世後、2歳で家督を継いだ典信が幼㉑ 木挽町狩野家における法華信仰と絵画について─「日蓮聖人縁起絵巻」を中心に─

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