少にして画を吉宗の上覧に入れ、吉宗より賞賛と共に懇切丁寧な指導を得ていることにも表れている。吉宗後の歴代将軍が全て吉宗の血筋から生まれている事実を見る時、吉宗の寵愛を受けていたことは、典信代以降の木挽町家の隆盛を思うと木挽町家にとって極めて有利な由緒であったに違いない。水戸藩家中より木挽町家4代古信のもとに嫁した本是院妙性尼は、古信歿後、自ら幼い典信に画を教授した。本是院は法華信仰に篤かったことが伝わるが、これはもともとの篤信に加え、恐らくは幼年の典信を教授する中で、典信と木挽町家の行く末を神仏に縋る切実な思いがその信仰に大きく影響していると想定される。本是院の篤信を見て育った典信もまた、法華信仰に篤かったと考えることは極めて自然なことであろう。将軍家の威光を体現する奥絵師が将軍家以外のために絵を描くことは、幕府の許可を必要としたとされるが、そのような中、典信自らの意志によって日蓮五百遠忌という意義ある年に、菩提寺である本門寺に奉納された「日蓮聖人縁起絵巻」八巻は、典信にとって記念碑的な作品であったに相違ない。そこには母と自身とを支えた法華信仰に対する報恩とともに、後に典信が本門寺狩野家墓所中に建てる母徳碑(本是院顕彰碑)に示されているような母に対する報恩が看取できるものと思われる。木挽町家は本是院以前においても篤い法華信仰を受持していたと思われるが、本是院・典信に継がれた法華信仰は、より強く以降の木挽町家において継承されたものと思われる。幕府奥絵師・表絵師となる狩野諸家では、駿河台家と浅草猿屋町代地家分家を除き日蓮宗の信仰を堅持していた。法華信仰は御用絵師集団である狩野家の結束に一つの紐帯として機能していたものと想定しているが、その中心にいた木挽町家の法華信仰を具体的に知ることは他の奥絵師家・表絵師家における信仰について考察を拡げる基礎作業として重要なことと考えている。研 究 者:東京文化財研究所 企画情報部 広領域研究室長 小 林 公 治意義最初の出現より約5千年もの歴史を持つ螺鈿であるが、現存技術の源流は、おそらく正倉院宝物を代表とする唐代の螺鈿器にあると考えられる。実際唐代の螺鈿以降、㉒ 15−17世紀朝鮮螺鈿漆器編年および日本製螺鈿器との並行関係検討
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