研 究 者:金沢美術工芸大学 美術工芸学部 准教授 水 野 さ や現在、興福寺国宝館に安置される阿修羅、乾闥婆、迦楼羅、緊那羅、沙羯羅、鳩槃荼、畢婆迦羅、五部浄の各像(以下、興福寺像)は、十大弟子像とともに興福寺西金堂に伝来し、八軀で構成されることにより「八部衆」の群像と理解されている。興福寺像に関する現在の理解は、主に以下の2点に集約されよう。まず、光明皇后が母橘美千代の追福のために発願し、天平六年(734)建立の興福寺西金堂の当初像であるとの前提のもと、『金光明最勝王経』序品および夢見金鼓懺悔品などを背景とする教理的理解である。さらに、その伸びやかで若々しい体軀表現は、法隆寺塔本塑像(710年頃)より一歩進んだものであり、かつ、東大寺法華堂諸像(740年代)に見られる充実した肉取りには至っておらず、ちょうど中間に位置するとの造形的理解である。また、最近の『日本美術全集』3(奈良時代Ⅱ、東大寺・正倉院と興福寺、小学館、2013年9月)において、興福寺像の造形的特徴をさらに細かく見つめ、本像の眉をひそめた特異な表情に光明皇后の母三千代に対する深い哀悼の念を汲み取り、『金光明最勝王経』の滅業障品に登場する女人「福宝光明」の成仏譚に依拠する造像である見解が提示されている。以上のように、造立年代および伝来ともに定着した感があるが、周知のごとく、興福寺像および十大弟子像をめぐり、かつては異なる理解がなされてきた。明治四十三年(1910)の『特別保護建造物及国宝帖』をはじめ、大正十三年(1924)の『日本国宝全集』などは額安寺伝来と理解しており、『興福寺大鏡』14・15(大正十五年〔1926〕・昭和二年〔1927〕)および安藤更正氏の論考(「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就いて」、『東洋美術』3、1928年など)に至り、十大弟子像とともに興福寺西金堂伝来の当初像との見解が示された。その後、安藤氏と小林剛氏(「興福寺十大弟子像および八部衆像の伝来について」、『美術研究』11、1932年など)、足立康氏(「興福寺十大弟子及び八部衆像の製作年代」、『東洋美術』特輯「日本美術」4、1932年など)の間に、興福寺西金堂説か額安寺説かをめぐり、しばし議論が行われた。その根拠は、『扶桑略記』、『七大寺日記』および『七大寺巡礼私記』など、額安寺説を説く文献の信憑性をめぐる議論に終始されてきた感がある。ここで、筆者は、興福寺像の尊名、八軀の尊像構成および本来の図像的特徴に関し、㉕ 興福寺脱活乾漆造八部衆像に関する再検討
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