化を基底とする煎茶に用いる器に、どのようにして異国風のエキゾティックな雰囲気をまとわせる工夫をしたのかを明らかにしたい。そのアプローチの一つとして、『芥子園画伝』、『方氏墨譜』などの中国の版本、『清風瑣言』、『続近世畸人伝』などの日本の版本、室町時代の足利家同朋衆が秘蔵したという奥書を有する『足利家茶瓶四十三品図録』という写本に掲載される図像に注目し、それらを全体的もしくは部分的に引用した作例を探索して、京焼陶工の煎茶器製作について考察を進める。従来の研究では、江戸後期の様々な京焼陶工とその作品をまとめて概略を述べる「総論」がほとんどを占めており、個々の作品を掘り下げて考察した「各論」は皆無に近い。また、作品として煎茶器が取り上げられるのは、絵画も手がけた文人陶工として著名な青木木米のみであった。一方仁阿弥道八は、尾形乾山の作風に倣った琳派風の装飾を施した抹茶器ばかりが取り上げられ、煎茶器を手がけていたこと自体、ほとんど知られていない状況にある。仁阿弥の弟である尾形周平にいたっては、作品が主に煎茶器であるため、戦後日本文化の代表として茶の湯と抹茶器の注目度が高まるのに対して、煎茶と煎茶器の注目度が低くなったことによって、仁阿弥の弟として名前が残るのみという状況になっている。従って本研究は、先述のような研究史上の空白を埋めて偏重を矯正し、江戸後期における京焼陶工の制作活動や作品に関する、具体的な研究視点を提示するとともに、江戸後期の人々が享受していた中国趣味や中国への憧憬の一端を、少しでも明らかにすることを目的とする。研 究 者:山形大学 地域教育文化学部 教授 小 林 俊 介意義高橋源吉は由一やフォンタネージから洋画の教えを受け、国沢新九郎、本多錦吉郎らの画塾「彰技堂」とも近しい関係にあった。彰技堂の教育は国沢が将来したイギリスの技法書を本多錦吉郎が訳述するもので、明治期の洋画に大きな影響を及ぼしたと考えられる。すなわち源吉の絵画表現は当時最先端の洋画教育に基づいたものであった。また源吉は由一の助手や共同制作者として画塾天絵社の経営、及びその講義録的存㉟ 高橋源吉の研究
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