鹿島美術研究 年報第31号
90/132

在であった雑誌『画遊席珍』の編集など、由一の業績に深く関与している。明治22年創立の明治美術会は明治初期の洋画塾やフォンタネージ、さらに渡欧して学んだ洋画家たちの大同団結であったが、同会で源吉は評議員を務め、同会の美術学校で教え、また東京上野公園内の同会陳列館における常設展示を任されている。このように源吉は明治期の洋画家たちの活動のなかで中心的な役割を果たしており、源吉の活動の調査を通じて、これら明治前期における洋画の制作から展示、また教育普及に至る活動の実態が明らかになると考える。加えて、明治前期における美術用語や概念、就中「趣味」概念の形成に源吉は関わっており、源吉の思想の考察を通じて明治期における西洋美術・美学の諸概念の形成と受容過程の一端が明らかになるものと考える。源吉は明治24年に明治美術会において「テースト(趣味)およびスタイル(画風)に就いて」と題する講演を行っているが、その内容には当時「趣味」を論じた『勧善訓蒙』(1871年)の議論はもとより、イギリスのロイヤルアカデミーの会長であったレーノルズの講演をはじめ、近代日本美術に大きな影響を及ぼしたイギリスの詩人・批評家ラスキンの議論が反映している。ちなみに高橋由一の洋画就学の起因として、洋製石版画に「一ノ趣味ヲアルコトヲ発見シ」たという『高橋由一履歴』の一節がしばしば言及されるが、この記述には由一からの聞き取りという形で『履歴』を著作出版した源吉の視点が反映していると考えられる。『履歴』が近代日本洋画史の形成に果たした影響力を考慮すれば、源吉の美術思想の孕む意味は大きい。価値近代洋画の祖といわれる由一をはじめ、浅井忠、小山正太郎ら明治美術会に参集した画家たち、また従来彼らに大きな影響を与えたとされてきたフォンタネージや工部美術学校の教育については先学による研究の蓄積があるが、源吉に関する詳細な研究は未だなされておらず、本研究が明治期の洋画研究の進展に裨益するところは大きいものと考える。構想源吉をはじめ明治前期の画塾や明治美術会に参集した画家の作品にはフォンタネージよりもイギリス絵画の影響が大きいことが指摘されてきたが、具体的には検証されていない。源吉の作品を関連する当時の国内外の作品と比較考察し、構図や題材の扱いはもとより絵画技法やその背景をなす美術思潮も含めて検討することで、18世紀末

元のページ  ../index.html#90

このブックを見る