鹿島美術研究 年報第31号
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つきとして捉えられ等閑視されてきた。本研究では、こうした作品も重点的に調査し、時期的な特徴として位置づけを試みる。研 究 者:法政大学 国際日本学研究所 客員学術研究員  神 野 祐 太本研究の出発は、従来、製作年代が知られていた文永7年(1270)製作の東京・上宮会聖徳太子孝養像の造像銘記を再検討し、二つの事実が確認できたことにある。すなわち、上宮会像が16歳として造られた孝養像の最古の作品であることと、「真影」をうつした模刻像であることが判明したことである。これらの新知見をもとに、いままでほとんど注目されなかった聖徳太子廟の太子像に光を当てる。というのも、この太子像が嘉禄2年(1226)にはすでに「十六御影」と呼ばれ、当該像(もしくは当該像の再興像)と推測される大阪・叡福寺安置の太子像が孝養像形式だからである。上記のような理由から、本研究は叡福寺聖霊殿に安置される聖徳太子孝養像を主な対象とする。叡福寺像は、実際の装束を着ける、いわゆる着装像であり、近年、石川知彦氏によって鎌倉時代の製作であるという説が提出されたが、いまだその評価は定まっておらず、未指定の作品である。本研究の大きな目的は、第一に、叡福寺像を調査し製作年代を確定したうえで、孝養像を16歳に充てた時期が、鎌倉前期にまで遡ることを考察する。第二に、着装形式の孝養像について調査し、着装像研究の基礎資料としたい。第三に、孝養像の根本像と模刻像との関係を検討し、中世の聖徳太子信仰の一端を明らかにする。まず、叡福寺像の調査をおこなう。史料上で太子廟像は、鎌倉初期までに造られていたと推測され、南北朝期には裸形像であった。高氏や織田信長の兵火によって、像の手足が損傷したと記す史料もあり、かなりの補修が施されていることが推測される。これらの史料に記述される太子廟像と叡福寺像が同一像であるか確認することは現段階では難しいが、実地調査と関係史料の収集によって、鎌倉期に遡りうる作品か検討したい。次に、中世に造られた叡福寺像以外の孝養像も調査対象である。孝養像の括りでは範囲が広いので、特色のある着装像に限って調査する。具体的には、京都・権現寺、奈良・長福寺、大阪・大聖将軍寺、兵庫・鶴林寺、芦屋仏教会館(叡福寺伝来)、斑鳩寺に所蔵される各像である。さらに、孝養像の根本像と目される四天王寺㊳ 中世の聖徳太子孝養像に関する調査研究

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