鹿島美術研究 年報第31号
95/132

聖霊院の太子像との関係を考察する。日本宗教史上、聖徳太子が最も重要な人物の一人であることは言をまたない。中世の太子信仰については、様々な分野からのアプローチがなされており、活況を呈しているが、信仰の根本をなす太子像については、史料の制限や調査の困難のために必ずしも研究が活発とはいえない。本研究は、叡福寺像を中心にあらためて太子像に注目し、聖徳太子研究に新たな視座を提示するものである。また、中世、太子は「和国の教主」として信仰が盛んになり、太子信仰の中心地である四天王寺や太子廟には、天皇や上皇の行幸も頻繁におこなわれ、慈円や円照といった高名な僧侶の参詣があいついだ。これらの人物の思い描いていた太子イメージを具体的に提示し、より立体的な太子信仰の実態を明らかにできるだろう。研 究 者:林原美術館 主任学芸員  浅 利 尚 民近世に花開いた大名文化は、明治維新を経た近代以降、その価値を正当に評価されてきたとは言いがたい。西洋化を急いだ新政府により、古来からの日本文化や美術が軽視される風潮が起きたことも理由の一つであるが、なによりも旧大名家そのものが、新時代の波に飲み込まれ、自家に伝えてきた美術品(文化財)を手放さざるを経なかったという経緯がある。中でも能楽関係資料は、庇護者である徳川幕府を失って以降、明治中期頃に旧大名家や公家を中心とした華族等によって、その保護の必要性が叫ばれるまでは、不遇の時期を過ごさねばならなかった。また、大正時代に入り華族による売立が盛んに行われるようになると、すでに旧藩主らの孫の世代になっていたこともあり、能楽に対する関心もあまりなかったのであろうか、岡山藩主池田家でも、大量の能楽関係資料を売立ている。近年の研究によれば、大正8年4月に東京美術倶楽部で行われた売立に際し、当初は所蔵している全ての資料を出品する予定であった。直前になり、一度に大量に出品する事は、価格的に不利になるという判断が働いたようで、能装束は全体を三つにわけたうちの二つを、能面は全体の二分の一を出品することに決まった。このとき池田家を離れたものの一部が、大倉集古館や京都国立博物館などに収蔵されていることが明らかになっている。このように、同一の家に伝わった能楽関係資料は、現在は所蔵者も所蔵される地域㊴ 岡山藩主池田家の能楽美術・文化の研究

元のページ  ../index.html#95

このブックを見る