研 究 者:慶應義塾大学大学院 文学研究科 後期博士課程 西 木 政 統本研究は、個別の薬師造像にあっては、数多くの模像が求められるなど例外的に広範な信仰を集めた、比叡山延暦寺一乗止観院(根本中堂)の最澄自刻と伝える薬師如来立像を、その宗教的機能に注目しながら同時代の薬師造像において位置づけることを目的とする。根本中堂像については、当初像が失われているなかでも、従来から膨大な研究の蓄積があり、模像である天台系薬師を含めて広い視野から理解が試みられてきた。ところで、その宗教的意味については最澄の末法観による像法転時の救済が注目を集めている。しかし、史料上の初出である『伝述一心戒文』に「年分度者」との強い結びつきがみられ、時を置かず『類聚三代格』には明確に「鎮護国家」を造像目的とすることが記されていることから、本像もまた当初は近年の薬師研究で明らかにされているように、戒律護持や鎮護国家といった期待を寄せられたものと推測されるが、従来こうした側面からの考察はなされておらず、検討の余地が残されている。たとえば、根本中堂像と年分度者との結びつきは、戒壇が設立されるまで根本中堂で受戒儀礼が行われたことと関わるが(『慈覚大師伝』など)、衆生の救済のみならず、僧侶にとってもまた本像が必要とされていたことを意味する。最澄の薬師信仰は、鑑真に由来する唐招提寺の薬師信仰とも関連がうかがわれるが、近年、金堂の薬師如来像に対して指摘されている持戒の視点からも、根本中堂像を捉え直す必要があるだろう。さらには、善殊の『本願薬師経抄』にもある通り、戒律護持とそこから求められる国家鎮護が当代の薬師信仰に期待されていたとすれば、根本中堂像もまたこうした視点からの検討を要求されよう。そのためには、当代、8〜9世紀の薬師如来像との比較が有効である。具体的には、この時期の薬師如来像に、根本中堂像と同じ等身(また五尺五寸程度)の立像が多くみられることや、また近年明らかにされたように、根本中堂像は左手を屈臂する特異な手勢をとっていたものと推測されるが、当代にあっては、神護寺像や滋賀・鶏足寺像など類例が多いことなどから、図像や造形といった観点からも、根本中堂像がこの時代の薬師信仰のなかで生まれ、機能していたことが理解される。しかし、『三宝絵』に像法転時の救済が記されるように、持戒と国家鎮護にとどまらない役割が期待され㊷ 平安時代前期の薬師造像に関する研究
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