にミーディマが1595年の勅書の内容を分析した論考を発表している他にほとんど無い。それゆえ、いまだ研究の余地がある状況である。しかし、アカデミー研究において、プラハはアカデミーが最初に始まったイタリアとネーデルラントの地理的にも影響面でも狭間に位置するものの、従来、芸術運動の変遷を辿る中であまり触れられることがなかった。ルドルフ2世治世下のプラハはアルプス以北の芸術の一大拠点であり、ネーデルラント出身の芸術家も多く仕え、その芸術文化を自国に持ち帰ったため、同地の芸術運動について調査することは意義深いことだろう。次に、スプランゲルといったルドルフ2世の宮廷画家の個別研究を見ると、同宮廷で制作された作品にルドルフ2世の1595年の勅書や芸術運動の影響を見る解釈が採られることが多いが、その際、勅書の中でも絵画が手仕事でなく芸術と定められたことにのみ言及される傾向にある。しかし、その記述は勅書の一部に過ぎず、勅書の他の部分を見れば、例えばプラハではいまだ画家ギルドが刺繍師やガラス職人等の他の職人を含んでいたと気づく。そのことは絵画が芸術に格上げされたといっても、画家ギルドが独立してあったのではなく、ましてやアカデミー設立もされていない状況であったことを示す。このように興味深い記述が散見される勅書の内容と、それに対する画家の実情といった社会史的視座を作品研究に組み込めば、より深い作品解釈が見込めると思われる。研 究 者:学習院大学大学院 人文科学研究科 博士後期課程 柳 澤 恵理子目的本研究では、十七世紀以降の「一の谷・屋島合戦図屏風」が、合戦絵というジャンルの中でどのように位置づけられるか、また、“物語”を意識した平家絵もしくは「一の谷・屋島合戦図屏風」以外の平家絵がどのような機能を持つものであったのか、合戦絵・物語絵両側面の要素を持つ近世平家絵の在り方を明らかにすることを目的とする。意義・価値1)近世の合戦絵の展開とその構造の解明中世絵巻においては、合戦絵は「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵巻」「平治物語絵㊸ 近世前期における「平家絵」の生成と受容
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