鹿島美術研究 年報第32号
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状況である。その要因として、聖戒率いる六条派が中世において他宗派との関わりを持たず断絶していたことが挙げられる。しかしながら一方で、勧進のため「一遍聖絵」を何度か展観を行ったり、連歌等の文芸活動を積極的に行っていたことが古記録よりうかがえる。本研究において、中世京都の時衆文化圏と祖師伝絵巻制作背景を明らかにするとともに、現在に至るまでの聖戒本の断絶についてその要因の解明に努める。研 究 者:神奈川県立金沢文庫 主任学芸員  瀬 谷 貴 之仏師運慶は、日本美術史上、最も著名な作家の一人であり、彫刻史においては鎌倉新様式を確立し、後々まで影響を与えた重要作家である。これは、運慶自身の卓越した技量が前提となっているのはもちろんだが、平安時代末期の南都焼討後の大規模な復興事業に携わったことや、新興勢力である鎌倉幕府と密接に結びついたことによって得られた評価でもある。とくに鎌倉幕府との関係は極めて政治的な側面も持ち合わせており、その高い芸術性を昇華することにより、運慶在世中はもとより、その没後も鎌倉幕府関係や東国における造像に強い影響を与えた。本研究では、その実態を明らかにすることにより、運慶の日本美術史上の新たな位置付けを試みたい。具体的には、以下の4点を中心的な目的とする。①伊豆・願成就院の造像と源頼朝、北条政子文治二年(1186)に北条時政により発願され、運慶によって制作された願成就院の諸像は、運慶と鎌倉幕府の関係を考えるにあたって、最も重要な作品である。本研究では、その造像が北条時政個人だけではなく、鎌倉幕府(源頼朝、北条政子)と運慶の関係を前提にして行われたものであることを、関係資料の検討により明らかにする。②横須賀・浄楽寺の造像と鎌倉・勝長寿院文治五年(1189)に鎌倉幕府侍所別当・和田義盛によって発願され、運慶が制作した浄楽寺の諸尊像は、願成就院とともに、運慶と鎌倉幕府の関係を考える上で重要な作品である。これについても検討を加え、文治元年(1185)に供養された鎌倉・勝長寿院の成朝(運慶の主筋とされる)による諸尊像との関係を明らかにする。③鎌倉・永福寺の造像と運慶㊽ 仏師運慶と鎌倉幕府関係の造仏をめぐる調査研究

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