鹿島美術研究 年報第32号
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永福寺は、建久年間後半に造営された、鎌倉幕府初期の主要寺院である。その実態は、『吾妻鏡』の関連記録や、近年行われた発掘整備調査によって明らかにされつつあるが、本研究では、その造像に運慶が携わったことを指摘したい。そして、この造像が鎌倉幕府と運慶の関係をより密接なものにしたことを明らかにする。④鎌倉・大倉薬師堂の造像と運慶 大倉薬師堂は、建保七年(1219)執権北条義時により発願され、運慶がその造像にあたったことが『吾妻鏡』によって知られる。とりわけ、十二神将像は大倉薬師堂様として鎌倉周辺において多数の模刻像が作られたことが近年明らかにされつつあるが、この十二神将像に鎌倉・永福寺の十二神将像が強く影響を与えたことを明らかにしたい。研 究 者:堺市博物館 学芸員  宇 野 千代子本研究では、田能村直入の堺・大坂滞在期の作品と、富岡鉄斎の堺滞在期の作品を調査し、当該期の彼らの画業について考察を行いたい。田能村直入は、江戸後期から明治にかけての南画(文人画)を代表する人物でありながら、その画業に関する研究は進んでいない。とくに、京都に移住するまでの前半生を過ごした堺・大坂での画業については、これまで注目されることがなかった。しかしながら、堺・大坂滞在期の作品には、直入の初期的な絵画表現を見ることができ、彼に制作の場を提供した人的ネットワークについても推察できる。この時期の作品を調査研究することは、直入の画業のその後の展開を考えるうえでも重要である。富岡鉄斎については多くの研究の蓄積があるが、神職として堺に滞在した40歳代前半の画業に関する研究は少ない。この時期の作としては、「大鳥神社神幸図巻」など神職ゆかりのもののほか、富士山などの真景図、山水画や道釈人物画など、『鉄斎研究』(1〜65号:鉄斎研究所、66〜71号:鉄斎美術館、1969〜1996年)に掲載されたもので30件ほどが知られ、すでに画題や表現の多彩さが見られる。鉄斎作品には晩年に至るまで、文人画としては異質な画題や表現が入り混じって見られるが、鉄斎作品の幅広さや複雑さの意味を読み解いていくためにも、堺滞在期の作品の調査研究は意義深㊾ 南画の継承性と創造性―田能村直入の堺・大坂滞在期の画業と富岡鉄斎の堺滞在期の画業―

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