鹿島美術研究 年報第32号
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 4. パブロ・ピカソによる1950年代以降の立体作品について    −Alfred Barr Papersに見る展覧会“The Sculpture of Picasso”(1967)の実態と 発表者:和泉市久保惣記念美術館 学芸員 町 田 つかさ「彫刻は、画家が絵画に対してなしうる最大の注釈である」この作家自身の言葉にも示されるとおり、パブロ・ピカソの制作は常に、絵画と立体の相克によって生み出されたものであった。キュビスムにおける絵画とコンストラクションの蜜月、絵画に描き込まれたブロンズ像、絵画をそのまま切り出したようなの史料から分かる。悲しい最期を迎えた絵師だといえる。現在までに知られている友我の作品が二点だけなのも、この事件が一因なのかもしれない。この度の調査研究助成により、その山本友我の新たな作品「瀟湘八景図」が確認できた。一見、室町時代の詩画軸かと思える作品である。繊細な墨線により瀟湘八景が丁寧に描かれており、友我の優品だと思われる。ところが、この作品が興味深いのは、その画面だけではない。『隔蓂記』の記録から、この作品が描かれるようになった契機、鳳林承章を含む八人の僧の着賛および跋文が揃うまでの経緯がつぶさに分かるのである。こういう例は実に珍しい。これらの記録を追うことにより、山本友我「瀟湘八景図」の制作背景を見ていきたい。この作品の制作事情の解明は、日本の詩画軸を考える際にも参考になるはずである。また、山本友我は詐欺を働いたため京都所司代・板倉重矩に裁かれ、その結果として磔となった。この裁判を考える際、参考になりそうなものがある。狩野山雪の裁判である。慶安2年(1649)、狩野山雪は義理の弟・狩野伊織が作った借金のため投獄されている。このことが京都所司代・板倉重宗の裁判の覚書『公事留帳』から分かる。つまり、山雪も友我も金銭トラブルにより京都所司代に裁かれたということになる。ちなみに山雪を裁いた板倉重宗は、友我を裁いた板倉重矩の伯父である。この二つの裁判には複数の共通点があるのだが、山雪は釈放となり、友我は磔となった。この違いはどこから生じたものだろうか。当時の裁判の実態に注目しながら、山本友我の最期についても考えたい。山本友我という絵師を彼が生きた時代の中でとらえたい。その意義−

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