で絵を学んだ夢二は日本画や油絵の材料を用いて旺盛な絵画制作を行ったが、その出発点は新聞や雑誌、書籍の挿絵にある。近年、高橋律子は『竹久夢二―社会現象としての〈夢二式〉』において、夢二が社会に与えた影響の大きさを論じている。そこでは、時代背景を調査し裏付けをとることによって、雑誌など印刷メディアを介して夢二が美人画で人気を博すこととなった経緯が実証されている。一方、夢二のデザイン分野での功績について、先行する諸研究では、大正3年に開店した日用品を扱う小美術店「港屋絵草紙店」、大正12年に設立宣言が発表されるも関東大震災で頓挫した図案会社「どんたく図案社」、昭和5年に宣言文が発表されながら欧米旅行と結核の発病によって計画倒れとなった「榛名山産業美術研究所」の三つが主な柱とされている。商業主義に基づく大量生産を否定し、自らの手で身近な材料から日用品を制作することを目的とした榛名山産業美術研究所の構想については、ウィリアム・モリスの思想との関連性がしばしば指摘されている。さらに視野を広げると、その宣言と同年に、粘土や古裂などから人形制作を行い、銀座資生堂で開催された創作人形のグループ展「雛によする展覧会」も、夢二の応用美術の活動として評価され、近年では王文萱により積極的な研究がすすめられているものである。これら昭和5年のふたつの取り組みは、手作りという制作工程が重視されている点で共通しており、それらの制作の源流として、肉筆による服飾デザインの実践があるのではないかと想定される。このような理由から、大正末期から昭和初期にかけて夢二が行った「手作り」に重点を置いた活動の原点を探るうえでも、大正初・中期における服飾デザインを詳細に考察することは、大きな意義があると考える。合作帯の研究を通して、肉筆による服飾デザイン制作の背景とその目的、職人に頼らずに自らの手で作り上げることの意義、さらに夢二独特のモティーフに表出する「抒情」の実態を捉えたい。メディアを介して敷衍した作品の社会的な影響力が解明されつつある夢二研究において、それとは逆の、手作りによる作品の制作理念に光を当てることによって、夢二の芸術観をより豊かに浮かび上がらせることができる。それは、明治末期から大正期という工芸界の変革期に夢二が実践した日用品デザインの制作活動を、美術史の側面から評価することにつながるであろう。
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