うものか考察する必要があるだろう。本研究では、個々の作品の成立に関する基礎的な調査を踏まえ、久一の作風変遷をたどり、その需要の実態についても明らかにしたい。また、竹内久一と集古会などの趣味的グループとの交流については、山口昌男氏の著作によって追究されているが、彫刻家としての交際圏については不明な部分がある。先に、「竹内久一工房」の可能性に言及したが、従来の久一研究において、次世代への継承と影響は見落とされている。歴史彫刻を得意とした白井雨山、《伎芸天》の彩色に携わり、のちに人形作家となった中谷翫古など、久一の教えを受けた者は多い。平櫛田中が初期の無彩色木彫から彩色木彫に転換した背景には、久一への私淑があったことも無関係ではないだろう。天心の「売れない彫刻をつくる」という命題のもとに組織された日本彫刻会の作家たちと、同じく天心に示唆を得た久一が、流通を念頭に置いた作品を制作したことは興味深い対比をなしている。こうした傾向は久一門下にも受け継がれており、陶彫の先駆者となった沼田一雅や天岡均一など、同一原型から作った作品の頒布を行っている。以上を考慮しながら、本研究では竹内久一に関する作品・文献調査を主体として、久一の作風変遷や未紹介の作品の所在について明らかにする。明治彫刻界における久一の活動を検証し、次世代の彫刻家たちに与えた影響についても考察することで、日本近代彫刻史におけるその位置を再考することにつながるであろう。研 究 者:立教大学大学院 キリスト教学研究科 研究生、博士(文学)画家ロヒールは生前から国際的な名声を博していたが、史料から真作と認められる作品は僅かであり、本作《七秘蹟祭壇画》の研究史においても制作年代の推定、依頼主や奉納先、描かれた人物の同定等、作品の来歴を巡る史実関係の検証が主流を占めてきた。これらを踏まえて、本研究では当時のキリスト教社会において七秘蹟図像が果たした意味を再考し、当時の教会をめぐる思想的背景から《七秘蹟祭壇画》を新たに捉えなおすことを目的とする。本 橋 瞳⑦ ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作《七秘蹟祭壇画》研究―《七秘蹟タペストリー》との図像比較と制作背景を中心に―
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