鹿島美術研究 年報第32号
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王権を支える文化的創造として機能しつつ、さらには従来の貴族の絵画観をも打破するものとして、後白河院という歴史学的にも評価が二分されてきた特異な権力者によって領導され、平安時代の「王朝美術」が人間的、かつ現実的な鎌倉美術へと変容する端緒となったと位置づけられてきた。一方で、美術全体としては、平氏による南都焼討ちと重源等によるその復興が注目され、慶派仏師による天平様式及び宋仏画に学んだ新たな彫刻様式の形成や東大寺南大門の「天竺様」に代表される中国江南地方の建築様式の導入、また石造文化財における南宋石彫との関わりなど、南都という場、重源の入宋、重源周辺の宋工人の存在等から、我が国の美術史研究においては、古典学習や東アジア世界との関わりといった視点が比較的早く導入された分野であった。しかしながら、これらの視点は上記の後白河院政期における絵画制作の研究にはあまり反映されていない。本研究は、この点に鑑み、史料から窺える後白河院の天平美術への関心に注目し、特に仏画制作において「十一面観音像」(奈良国立博物館)や「阿弥陀聖衆来迎図」(有志八幡講十八箇院)等において、東大寺や正倉院伝来の絵画の様式が受容されていることを明らかにし、研究の導入とする。そして、このような視点から、③の「六道絵」制作にも聖武天皇周辺における屏風絵制作との仏教思想的関わりがあることを指摘する。また、病を絵画化するという構想について、南宋宗室コレクションに同様の作例があることを指摘し、あらためて宋代絵画との関わりを考察する。あわせて、①についても、既に指摘のある都市図としての機能を視野に納め、北宋末期における「清明上河図」の制作や徽宗コレクションの形成との関わりを指摘したい。また、②については、近年宋代における文人の表象との関わりが指摘されており、この点についても再考する。以上の内容について、本研究では具体的な作品による考察を通じて、後白河院政期の絵画制作が、後白河院の個性のみに帰されるような閉鎖的かつ特異なものではなく、天平美術を通じた唐代における東アジア国際様式を視野に収めつつ、同時代の宋代絵画の動向(それには社会的存在としての絵画コレクションの機能という側面も含む)に対して極めて意識的に行われたものであり、そのような性格を有していたが故に転換期の絵画として、次代の鎌倉美術の展開の母胎ともなり得たことを改めて指摘する。このことによって、本研究は、平安絵画史研究の新たな構想を示す意義のあるものと考える。あわせて、後白河院政期における絵画制作の様相を新たな視点から解

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