鹿島美術研究 年報第32号
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1.まず、日本絵画近代化の過渡期である明治の京都における学画過程の実態についてである。櫻谷は16歳で四条派の今尾景年塾に入門、伝統的な四条派の教授法で模写、運筆の訓練を徹底的に受けた。一方、相前後して入塾した山本渓愚の山本読書室では漢学を学んだと伝えられるが、景年も教えを請う本草学者でもあった渓愚から、博物学の影響を受けた可能性もある。2.次に明治京都における日本画家と洋画との関わりである。櫻谷が景年塾入門前から西洋絵画に関心を持っていたらしいことは、洋画縮模の存在からもうかがえる。明治30年代後半からは、京都時代の浅井忠のもとに出入りしたといい、風景の写生などにその影響がうかがえる。3.最後はこの時期の日本画家の作画のプロセスがあげられる。写生帖には、代表作《寒月》(大正元年)はじめ、本画に直結する写生画が少なからず見出せる。櫻谷文庫資料は現在悉皆調査の最中であり、現時点ではごく一部の下絵類しか見出されていないが、写生→小下絵→大下絵→本画制作という日本画通有の手順の初期段階でなされた試行錯誤から、櫻谷の絵画思想を探る。報が得られるものと考えられる。また、明治前期に画派の壁を越えて結成された青年画家の勉強会ともいうべき如雲社での古画鑑賞と縮模の様子から、この時期の京都画壇で一般に規範とされたものの実態をうかがえるだろう。一般に美術学校での教育を中心として語られがちな絵画史であるが、近代京都画壇の揺籃となったのは、林立していた画塾の存在ではないだろうか。画塾の弊害は明治半ばころからすでに指摘されてきた。つまり、多くの場合、師の絵手本の模写を基本にするため、弟子たちの画風は画一的かつ形式的になりがちだった。しかしそれはまたどの弟子も一定のレベルまでは到達し得ることであり、画壇の裾野を広げることともなった。ただ、私塾であるために資料類が散逸しがちであり、これまで実態に迫れずにいた事実もある。またこれら写生帖群からうかがえるのは櫻谷個人の実情ではあるが、一個人のケースを通じ、上記のような京都画壇、さらには近代の日本画壇全体に敷衍されるべき多くの問題へと展開し得るであろう。

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