鹿島美術研究 年報第32号
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世紀末〜13世紀初頭頃の造像になるが、当時南都を中心に同形の弥勒菩薩像の造立が盛んに行われており、こうした背景との関連性が想定されている。最近になって注目された像ではあるが、上述のように鎌倉時代彫刻史に関わる様々な問題を孕んでおり、重視されるべき作といえる。この点を踏まえ、本研究においては、その保存良好な彩色や截金文様、そして金銅製装身具を含めて同時期の他作例との比較検討を行い、十一面観音像の鎌倉時代前期作例としての位置づけの定位を目指す。主要参考文献:小山正文「瀧山寺と運慶・湛慶」(『史迹と美術』49−5、1979年)、同「瀧山寺の運慶作品について」(『同』49−9、1979年)、同「再び瀧山寺の運慶作品について」(『同』51−6、 1981年)、松島健「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」(『美術史』112、1982年)、山岸公基「(解説)十一面観音菩薩立像」(『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』 2013年)研 究 者:大阪市立美術館 学芸員  米 沢   玲本研究の目的は、大峯八大童子の図像を手掛かりとして、吉野曼荼羅図をはじめとした修験道に関わる造形作品の制作背景を考察することである。対象作例の中核をなす吉野曼荼羅図や熊野曼荼羅図は、ともに数十点の現存作例が知られ、基礎的あるいは個別的な研究がなされてきた(注1)。その一方、作例の豊富さにもかかわらず具体的な制作背景や用途、制作主体についてはほとんど解明されていないのが現状である。大峯八大童子は決して中心的な尊格ではないが、役行者や蔵王権現に付随して熊野曼荼羅図にもあらわされるなど、広く信仰されてきたと考えられる。また、作例によって形姿が一定せず図様に多様性が認められることから、大峯八大童子の造形が制作に際しての思想背景を反映している可能性や、作例自体の系統を分類する手掛かりになる可能性が高い。修験道が仏教や神道、道教など種々の信仰を背景として成立したことについては、先行研究で指摘されるものの、実作例の図像から具体的に思想背景を想定した研究は少ない(注2)。作例によっては典拠となる史料が確認できるものや、不動八大童子などの密教図像を転用したとみられるものもある。特に密教図像との関わりはこれまでに言及されてきたものの、具体的な図像と比較検討されるには至ってない。吉野曼荼羅図や熊野曼荼羅図が成立したとみられる中世に、醍醐寺や園城寺などの大規模な密教寺院が修験道に介入していたことを鑑みれば、修験道特有の尊格に密教諸尊の図像が転用された可能性は高く、個々の作例の制作背景を詳細に検⑱ 吉野大峯八大童子に関する調査研究

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