長い放浪の旅を強いられたことで知られる。その足取りを追い、《ゲルニカ》の受容の変遷を歴史的に検証する作業が本格化したのは、40年以上留まっていたニューヨークのMoMAからスペインへの返還がようやく果たされた1981年以降である。こうした研究の第一人者であるチップは、すでに1979年から調査に着手し、1988年、パリ万博から近年の返還交渉に至る網羅的な受容史を含んだ《ゲルニカ》の研究書を発表した。いみじくも同年、オップラーが《ゲルニカ》の受容問題の手引きともなるアンソロジーを出版し、この2人のアメリカ人研究者によって《ゲルニカ》研究の方向性が決定づけられ、受容史研究の礎が築かれた。近年の《ゲルニカ》に関わる調査研究の拠点は、絵画の移動と共にアメリカからスペインへ移ったと言えるが、《ゲルニカ》の世界巡回や受容の研究はほとんど進展しておらず、概説的に語られる印象を受ける。特に、2011年にマドリードのレイナ・ソフィア芸術センターとバルセロナのピカソ美術館協力のもと、1937−47年の《ゲルニカ》の受容をテーマにした批評集が出版されたが、オップラーの著書からの引用をスペイン語で再録したものが多く、また対象を1947年までに設定した理由の一つに「ゲルニカ・シンポジウム」の開催の重要性が挙げられるも、シンポジウムに関するそれ以上の考察はほとんどない。オップラーの著書の貢献は確かに大きいが、彼自身、50年の《ゲルニカ》の歴史を網羅するため、ページの関係上多くの重要な批評を掲載できなかったと述べていることからも、網羅的、概説的な受容論を脱し、時代や地域を限定し、先行研究で取りこぼされていた批評記事や一次資料を丹念に精査する作業が必要となるだろう。その最たる対象の一つが1947年の「ゲルニカ・シンポジウム」であり、本研究は《ゲルニカ》受容史研究の更なる発展に貢献できると考える。また、従来「ゲルニカ・シンポジウム」で注目されてきたのは、《ゲルニカ》の主要モティーフである牡牛と馬のシンボリズムを巡る議論であった。登壇者の一人のアメリカ人ジェローム・セクラーは、1944年にピカソにインタビューを行い、牡牛は残虐性と暗黒を、馬は民衆を表すというピカソの言葉を一貫して支持したのに対し、スペインの詩人フアン・ラレーアは、反対に、牡牛をスペインの民衆、馬をフランコ・ファシズムと主張した。結局、シンボルの解釈は鑑賞者にゆだねる、というピカソのメッセージが伝えられたことで議論は平行線に終わったが、この解釈論争は、その後の《ゲルニカ》の主題研究の高まりを決定づけたとみなされてきた。しかし、シンポジウムを記録した未刊行のタイプ原稿を丹念に読み解くと、彼らの議論の中には、他
元のページ ../index.html#70