鹿島美術研究 年報第32号
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趙令穣の画風に近い。ほかの恵崇の伝称作は花鳥画の傾向が強いが、「恵崇の小景」を詠う題画詩の内容と合致しない。五代末・北宋初に活躍した恵崇は南方の人であり、彼の画風は前代の江南画を受け継いだと考えられる。北宋末の趙令穣は恵崇からの影響を指摘するのが一般的であった。しかし文献によれば、彼は唐代の絵画を積極的に学んだといい、そこに恵崇との関係性は見い出されないのである。趙令穣の画風は唐代の画風を引き継いだ可能性が高いと言える。そこで、恵崇と趙令穰の画風を改めて考察・判別することが必要である。第三に、画帖の増加と、そのことが文人の絵画鑑賞に与えた影響について調査する。北宋前期は、障壁画、屏風画、掛け軸などの大画面の絵画が多かった。北宋中期に画帖という形式が興ると、それは絵画鑑賞の方法や絵画題材にまで影響を与え、また画面の縮小は職業画家以外による絵画制作の可能性を生んだ。こうした背景が、文人の創作意欲を喚起し、文人画理論の成立を助長したと考えられる。第四に、小景画と文人の美意識、小景画と徽宗画院との関連を分析する。北宋の文学の復古に伴い、文人たちは唐代の書風や画風を慕うようになった。その中で、唐代画風を受け継いだ小景画も文人の賞賛を受けている。この文人の美意識は宗室画家の趙令穰や王■に影響した。たとえば文官の宋迪の《瀟湘八景図》は、文献から徽宗によって模されたことが明らかであるが、この作品で宋迪は小景画のような構図を採用したと考えられる。徽宗の美意識と画院改革については先行研究を踏まえ、この新しい視点を加えたい。そして画院外の文人の美意識と画院内の改革が、北宋末に山水画の多様性をもたらしたことを分析する。第五に、絵画の詩意化の過程を考察する。南朝から風景を詠う詩は多く創作されるが、唐代の詩人により、初めて詩画同質論の美意識が提唱された。この時期に盛んになった神仙山水は唐末に如何なる詩意山水に転化したか、また詩意山水と江南画、江南画と「恵崇の小景」の関連を調査する。加えて、北方に生まれ活動した王維が、なぜ宋代になると江南画風に連ねられたのか、その山水画と江南画、詩意山水の関連を検証する。こうした追究を通して、趙令穰の学んだ唐代画風と王維画風との関係などに関する疑問を解明する。第六に、南宋院体画の対角線構造と、南宋院体画においてますます詩意に重点が置かれるようになったことについて考察する。北宋末に山水の表現が多様になってから、大様式山水は衰退した。南宋になると、構図は一層簡潔にされ、詩意の表出もよ

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