鹿島美術研究 年報第32号
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では、複数の共同プロジェクトが立案されている。これらを含めた、建築家との共同プロジェクトは、1930年代のフォンターナの活動の一部として非常に重要であった。フォンターナがひとりの芸術家として立つに至る経緯として、ペルシコとの親交について考察することは欠かせない。イタリアの近代芸術、特に建築の世界において指導的な役割を果たしたペルシコの存在は、フォンターナと当時のイタリア合理主義の建築家たちとの関係を近しいものとする一助ともなっている。フォンターナという芸術家の形成を、1930年代のミラノという都市の芸術状況からとらえなおすうえでも、ペルシコの建築における思想や批評家としての活動と、フォンターナの関係を問いなおすことには価値があると言えるだろう。反ファシズムの思想家としての一面もあったペルシコは、1936年に35歳という若さで夭折している。これに対しフォンターナは、生涯を通じて政治的な態度の表明において慎重な作家であった。この芸術家の母国が南米のアルゼンチンであったことも、そうした政治的態度には当然ながら影響を及ぼしているであろうが、作家としての生涯のごく初期に関わったペルシコの存在もまた、フォンターナの政治的な態度に影響したと筆者は考える。当時のミラノという都市において展開していた芸術シーンについての理解を深めるためにも、また、フォンターナという作家が当時の社会・政治の状況をいかに受けとめていたかについて考えるためにも、この研究は必要である。研 究 者:ポーラ美術館 学芸員  東海林   洋意義と価値ピカソのキュビスムにおいて後半期にあたる1913年から1916年にかけて制作された、色とりどりのコラージュに彩られた作品は、これまで「ロココ風キュビスム」と呼ばれ、それまでの前衛芸術としての造形的探究から後退し、第一次世界大戦後に迎える古典回帰への過渡期と考えられたために、これまで積極的に評価されてこなかった。これまでの先行研究は、様式的な側面から、その革新性と後の世代に与えた影響の大きさに焦点があてられ、第一次世界大戦の勃発によって停滞したパリの前衛芸術運動とともに、ピカソのキュビスムの探究も先鋭的なものから離れたと考えられてきたことがその要因であっただろう。しかしピカソのキュビスムが描こうとしたもの㊴ ピカソ1912−1916 ―エヴァ・グエルの肖像を中心に―

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