半跏思惟像と弥勒信仰に関する研究―朝鮮三国時代の磨崖仏を中心に―鏡山智子で、より具体的な考察を加えたい。以上の本研究活動は、オランダ植民地期に働いた複雑な文化・政治的力学を考察する上で極めて重要なものだが、将来的にはスペインによってキリスト教化されたフィリピン、イギリスによって支配されたインド・中国等の近代美術を横断するような相対的な視点に発展させる必要があるだろう。そのためにも、この機会に欧米とアジアの美術館・博物館および美術研究者の恒常的なネットワークを築き、アジア近代美術についての共同研究やシンポジウム・展覧会等の共同開催に今後つなげたい。研究者:大阪大学大学院文学研究科博士後期課程半跏思惟像が、いつ、どのような経緯で弥勒と結びついたのかという問題については、未だ不明な点が多い。中国の半跏思惟像は、観仏修行者の象徴、或いは太子思惟像として造立されたことが知られているが、弥勒との直接的な関係を窺うことはできない。一方、朝鮮三国時代や飛鳥時代の半跏思惟像には、蓮花寺戊寅銘四面碑像の「阿弥陀弥」銘や、野中寺丙寅年銘半跏思惟像の「弥勒」銘など、弥勒との直接的な結びつきを示唆する作例が存在し、半跏思惟像自体が弥勒とみなされていた一面が窺える。朝鮮三国時代における半跏思惟像は、新羅の花郎と弥勒信仰との結びつきという、きわめて社会的な文脈からしばしば説明がなされてきた。一方、半跏思惟像と弥勒信仰の関わりを、図像から明らかにしようとする研究も提示されている。毛利久氏は、断石山神仙寺磨崖や中原磨崖像、瑞山磨崖像において半跏思惟像とともに表される如来像を下生後の弥勒とみなし、群像全体が弥勒上生信仰・下生信仰の双方に関わる可能性を指摘された。また大西修也氏は、燕岐郡蓮花寺の戊寅銘四面碑像にみる阿弥陀・観音・弥勒という三尊構成について、法華経信仰と結びついた弥勒信仰のあり方を想定されている。この解釈を受けて浅井和春氏は、如来立像・半跏思惟像・宝珠捧持菩薩立像の三尊からなる瑞山磨崖像もまた、同様の信仰背景にもとづく可能性に言及されている。本研究の目的は、それら先学の研究をふまえて、群像における半跏思惟像の位置づけを図像上から再検討し、その背景となる信仰の性格と変遷を明らかにすることにある。―85―
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