(2013)など彼らの日本における具体的な活動について活発な議論が展開されており、何よりウィーンのジャポニスムについてはすでに研究や展覧会が多くおこなわれ蓄積がある。しかしながら、リチの作品を扱った研究は1987年のリチ・上野=リックス展、2011年のウィーン工房展のほかは管見の限りいまだ少なく、彼女の創作活動におけるジャポニスムの影響を具体的に検討することにより、個別研究の成果を加えることができると考える。一方ブルーノ・タウトはドイツの表現主義建築家として、またワイマール共和国期の12,000戸以上にのぼるジードルング(集合住宅)の設計でも知られる。1933年5月~1936年10月の約3年半を日本で過ごしたことにより日本での知名度は特に高く、当時の建築界における「日本的なるもの」追求の動向ともあいまって、従来は日本美の再発見者と位置づけられてきた。しかしながら、タウトは訪日以前から日本美術の影響を受けていた。《コリーン湖》(1903)で用いた遠近法によらず垂直に伸びる樹木の連なりから奥行きをうみだす手法に日本の木版画の影響がみられるほか、1924年刊行の著作『新しい住居―つくり手としての女性』では醍醐寺三宝院の写真を載せるなど、ジャポニスムへの関心は低くなかったことがうかがえる。井上章一の『つくられた桂離宮神話』(1986)以降タウト自身の意図と日本における受容との乖離が指摘され、近年行われた沢良子、酒井道夫らによる岩波書店所蔵の膨大な遺品、資料整理、および『タウトが撮った日本』(2007)などの成果発表により、タウトの著作の出版経緯も明らかになりつつある。翻訳や編集の問題への指摘に加え、2015年3月には『タウト建築論講義』が新訳として刊行されるなど、タウトおよび彼の受容に関する再評価が進んでいる。言説を除く素描やわずか2件の実作、「旧日向別邸(現熱海の家)」の地下3室(1936年9月竣工)および「大倉邸」のインテリア(1936年4月完成)の評価にもさらに多面的な議論を要すると思われる。リチ、タウトという二人の作家がそれぞれの出身地で吸収したジャポニスムを日本に逆輸入することにより、彼らの表現がどのように変化したか。また、タウトが1934年8月に高崎に居を移したのち、彼の推薦で上野伊三郎が群馬工芸所の所長をつとめた1936~1939年の間はリチも同行し、工芸所に勤めており、そこで作風は異なりながらも何らかの相互的な影響関係が認められるか。本研究はこれらの考察により、ヘルマン・エンデ(1829-1907)、ヴィルヘルム・ベックマン(1832-1902)、ヘルマン・ムテジウス(1861-1927)の来日や妻木頼黄(1859-1916)のドイツ留学など、19世―87―
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