鹿島美術研究 年報第33号
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(Ⅲ)地蔵菩薩を中尊とする三尊形式(地蔵菩薩・閻魔王・泰山府君または俱生神)(Ⅳ)地蔵菩薩を中尊とする地蔵十王像(Ⅴ)閻魔王を中尊とする十王像、および司命・司録像、奪衣婆像各尊像構成の最古の例と思われるものは、構成(Ⅰ)が12世紀の京都・醍醐寺閻魔天騎牛像である。この頃は閻魔天供が活発であったようだが、閻魔堂が造営された形跡は現状認められない。構成(Ⅱ)として確実なのが貞応2年(1223)造営の醍醐寺閻魔堂である。醍醐寺閻魔堂は鳥羽炎魔天堂の図像を参照しているため、鳥羽炎魔天堂も五尊形式の冥府彫像が安置されていた可能性は考えられる。構成(Ⅲ)が嘉禎3年(1237)の奈良・東大寺念仏堂像である。地蔵を中尊とする構成であるため、地蔵信仰との関わりを考えていく必要がある。東大寺念仏堂像は立地的に奈良・春日山の地蔵信仰との関わりが想定されてくる。構成(Ⅳ)は12世紀末から13世紀の制作と推測される大分・臼杵磨崖仏のうち地蔵十王像(ホキ石仏)が該当すると思われるが、地蔵十王像の制作年代については諸説あるため詳細な時代判定の検証が必要となる。構成(Ⅴ)は文明6~8年(1474~76)にかけて制作された、京都・常念寺像が制作年代の判明する早期の作例となる。各尊像構成から現存作例の分布を見ると、(Ⅰ)は現状では醍醐寺像が唯一の例となっており、鎌倉時代以降は作例が認められない。(Ⅱ)、(Ⅲ)は鎌倉時代に散見するが、時代が下るにつれて減少する傾向が認められる。代わりに構成(Ⅳ)、(Ⅴ)が増加する傾向にあり、近世にかけて主流となっていく感がある。なお、本研究での考察の対象は12~14世紀の冥府彫像を中心に行うものであるが、近世においても閻魔・十王像は多数確認されている。近世の作例は件数が多く、全体像の把握には多大な時間を有することが予想される。そこで、まずは中世の冥府彫像の位置づけを明確に行うことで、近世に流行した閻魔・十王信仰を考える上での基盤としたい(実際には中世と近世の閻魔信仰の間には断絶があると予想される)。冥府彫像の大まかな展開は以上のような流れを想定しているが、尊像構成ごとに分類し最初期に造像された作例の特定を行うことで、どのような要因によって尊像構成の転換が起こったのかという理解にも繋がるものと思われる。まずは、鳥羽炎魔天堂から醍醐寺閻魔堂という流れを想定することで、個々の事情を論じる足がかりとしたい。(注)①竹居明男「醍醐寺琰魔堂とその周辺―宣陽門院・九相図壁画・宗達―」―89―

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