鹿島美術研究 年報第33号
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東福寺画壇における頂相制作の基礎的調査研究美術において家族の姿がいかに描かれて来たのか、美術史の視点から読み解くことが可能と考えられる。日本の家族をめぐる美術史の研究は大変少なく、木下直之は、それらが一個の主題として描かれるようになるのは明治以後であり、それ以前の作例として久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」を挙げ、その長閑な団欒の一時を感じさせる様子に、日本人が投影する理想的な家族像が読み取れるという。このように平凡で身近な風景や家庭内の情景に対する画家の親密な眼差しを、浮世絵の母子絵や子ども絵に見出すことができる。供養絵額はそうした風俗画としての相似性が明らかであり、描かれる人物には主に歌川派に特徴的な面長の面容表現が見られる。さらに、没年や戒名など死者に関する情報を記載する点は、江戸で流行した死絵の影響を被った可能性がある。供養絵額が、浮世絵の影響を強く受けていることを画像資料とともに検証する。また、供養絵額は個人の遺影と言うよりむしろ家族写真の趣が強い。ピエール=ブルデューは、写真の実践が家族としての一体感をいっそう強めることになると指摘するが、普段は家族の私的な記憶としてアルバムに封印されているそれらの写真は折に触れて眺められ、何らかの語りを誘発する。東日本大震災では、家族アルバムを求めて瓦礫をかき分ける人々の姿が様々に報道された。今なお引き取り手のない写真や遺品が、被災地では折々に展示されている。家族写真は、そこに写る者が今は不在である事実を突き付け、遺族を絶望の淵に追いやる媒体であるかもしれない。しかしそれを何度も眺める内に、やがて死者の不在を受け入れ、深い哀悼の内に死者を送り出す契機も孕んでいよう。ここに、分断された生者と死者とを結びつける遺影の積極的な役割を見出すことができる。供養絵額を手がかりに、そうした遺影の有する今日的意義を浮かび上がらせたい。研究者:北九州市立小倉城庭園主任学芸員明兆(1352-1431)は14世紀末から15世紀前半に東福寺永明院の住持ともなった禅僧であり、寺院内で使用する公用の仏画や頂相を作画した画僧である。現在明兆落款の入るそれらは比較的多く伝わっているが、涅槃図や五百羅漢図、三十祖像といった明兆の代表作例としてあげられるものでさえ、作品ごとの詳細な調査・検討・制作の背景の考察など十分なされているとは言いがたい。―93―立畠敦子

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