鹿島美術研究 年報第33号
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筆者は明兆作例について、これまで「三十三観音図」は、宋代仏教の流れをくみ日本で再編集された観音懺法という修法のため制作された可能性が高く、その成立には将軍足利義持の意向が強く反映されていること、次に「釈迦三尊三十祖像」は、中幅の三尊の尊格と祖師の賛文から、賛者厳中周噩により鹿王門派の法脈の正当性を伝えるためつくられた列祖図であり、他の作例にみられる単幅の頂相の集まりとは制作意図が異なり自門派の列祖図としてつくられたものであると考察した。更に門派を超え東福寺明兆に作画を依頼した背景に見えるのは将軍家と夢窓派と明兆の関係であることに言及した。使用用途についても、春屋妙葩の残した「鹿王院遺戒」などに記述される月々の行事(法会)に使われていた可能性は高いと考えられる。この二例に共通するのは、寺内で行われていた宋代仏教文化の結実である宋風の生活(清規)や法会(儀軌)に基づき運営される禅林の姿と、制作の背景にみえる「制作され使用された場」である当時の禅林と将軍家足利義満-義持との親しい関係である。明兆筆の作例には、禅林社会の姿(禅林内での法事などイヴェント)、禅林社会と権力(者)との多様な関係という情報が詰まっているといえる。作例のうち明兆の頂相群へは、頂相の機能(列祖図も頂相の集まりであることから)とくに「印可証明説」と「祖師崇拝説」に加え、その「祖師崇拝説」延長として禅林内での使用とその「場」いう視点が重要であり、今後さらに詳細に考察されなければならない。そこで、明兆の頂相作例の詳細について調査・基礎データの収集・検討を行い、東福寺で画僧として多くの仏画・祖師絵等を制作した明兆の画業を考えるためのデータベースを作成する。加えて、近年の研究により、とくに宋代仏教が日本に与えた影響やその展開が、律宗等でも明らかになりつつある。禅林においても頂相群の考察により頂相の機能論をさらに押し進め、頂相の使用と具体的な法要やその儀軌を文献および、絵画作例の中から収集し宋代仏教展開の姿を再構成する必要がある。そこで、清規、儀軌の経典類、祖師の語録から、頂相に関する記述や祖師忌、開山忌など祖師崇拝の場面を、また祖師たちが描かれた五百羅漢図や多幅の羅漢図の中に探しだし、いままで祖師について精神的な事柄を述べることの多かった頂相の実務的な一端を明らかにし、同時に権門・顕密体制論により複層的な研究のある中世前期宗教史研究に比べ、考察の進まぬ禅林を中心とした中世後期仏教研究へも寄与できるものとしたい。明兆については、五山僧や将軍と交流し雪舟まで繋がる禅林内での仏画制作の伝統をつなげたというアクティブな実像が語られるようになったが、作例の多くが公人た―94―

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