る祖師の頂相・公用の大画面・多幅である点について言及されたものは少なく、それらが具体的に「何のために」作られ、「どのように使われたか」については必ずしも明確ではない。目的となる儀式があって、このような頂相や大画面・多幅の制作がなされるのである。さらに、祖師図、五百羅漢図などは、もとは中国宋代の仏教儀礼(儀式・修法)で使われたものが日本に請来されたものであるが、使われ方など詳細は未だ不明である。明兆作例を詳細に調査し史料を精査し、観音懺法のように宋代仏教の儀式を敷いて我が国で編集された儀式の一旦を、日本側の作例の検討から補完することで詳細が明らかになる可能性は高いと考える。加えて筆者の所属館のある北部九州地域は、中世、大内氏の勢力下にあった。大内氏は、禅僧のネットワークを最大限に利用し貿易を行ったことが知られており、東福寺で活躍した画僧として、明兆の他に水墨画を大成した雪舟も大内船で入明し中国を体験している。明兆を軸として東福寺画壇を調査・論考することで、14世紀から16世紀にわたって日本の禅林社会が果たした、政治的、外交的、宗教的、文化的役割の解明が進み、さらに北部九州の果たした役割も明らかになると考える。―95―
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