2.新南画の成立と展開発表者:京都府教育庁指導部文化財保護課技師うことが理解される。古代の彫刻技術の伝統と豊富な大理石の資源がいまだ存続し、かつ新しい宗教の新しい礼拝の場所を創造する意欲に満ちた時代であったからこそ、成立しえたモニュメントであったといえる。て考察し、新南画の成立を論じるものである。大正元年(1912)第6回文展出品作「近江八景」は、紫紅が歴史画から大きく作風を転じた作品であり、既往の研究ではその制作前後について検討が重ねられている。そこでは紫紅の西洋画への関心、特に「南画と印象派とは一致したもの」という主張が注目されてきた。また紫紅の積極的な中国画学習についてもよく知られており、周辺画家らの回想によって紫紅が石濤、龔賢、八大山人、呂潜といった明末清初の諸家を重視したことも確認されている。しかし紫紅が述べる「南画」と「印象派」が具体的にどのような絵画表現を指すのかについては不詳であった。本研究ではまず、大正改元前後の時期(すなわち「近江八景」制作前後の時期)における蒐集家、批評家の動向を考察する。当時は中国が混乱期を迎えていたこともあり、多くの中国絵画が日本へ将来され、寺崎三矢吉のように明清画蒐集によって知られる収蔵家も存在した。また批評家には、同時代の西洋美術思潮に呼応し、絵画における「再現」よりも「表現」を優先する価値観を標榜する者も多く、とりわけ関如来は明清画と西洋絵画を関係づけながら論じ、中国絵画の表現主義的傾向を西洋に先んじるものと評価している。本研究では、紫紅、寺崎、関が交流していたことを指摘し、周辺史料から彼らが重んじた「南画」と「印象派」の具体的内容を考察する。石濤ら大正期における南画(文人画)再評価の潮流として知られる新南画は、西洋美術の受容、個性主義を基準とする中国画評価、東洋美術至上主義など、近代美術史の重要な問題と密接に関わることから学術的な関心を集めてきた。しかし新南画の絵画表現の展開については過程的に把握されているとは言えず、特に形成期については不明な点が多い。本研究はこの課題を念頭に、新南画の先駆者とされる今村紫紅(1880-1916)とその周辺につい―20―中野慎之
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