鹿島美術研究 年報第33号
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4. 曾我蕭白筆「雪山童子図」について ―『釈迦の本地』、捨身飼虎、庚申信仰との関係を中心に―ありシェレの有力なパトロンともなったジョセフ・ヴィッタ男爵(1860-1942)の収集品についても、売立目録および展覧会図録等を頼りに調査を行った。これにより、シェレの周囲に存在していた日本美術品の一部を明らかにすることができた。こうした日本美術品がシェレ作品に与えた造形的影響については、《曲馬師、4人のピエロ》(1882年)や1890年パリ国立美術学校での「日本の版画展」のためのポスター等に見出すことができる。日本的モティーフの引用という単純なジャポニスムに加え、同時代の美術批評に目を向けると、これまでロートレックのジャポニスムを論じる際に言及されてきた、素早い即興による線描や対比的な配色、モティーフの単純化等の特徴が、シェレの作品について同時代に既に指摘されていたことが判る。ロートレックは、生涯でわずか30点程度しか制作しなかったポスターにおいても注文者からの批判を顧みない実験的な表現を繰り返した。一方シェレは職人として、あるいはアートディレクターとして商業目的にかなう1000点以上もの大量のポスターを手掛けた。ポスターの革新者である二人の画家は、異なる立場から日本美術を摂取し、新たな造形表現の可能性を模索したと言えるだろう。発表者:東京国立博物館アソシエイト・フェローミウォシュ・リチャード・ヴォズニ三重県松阪市の継松寺に伝えられる「雪山童子図」(以下、本図)は、釈迦の前世を物語る本生譚に取材しており、雪山で修行していた童子(前世の釈迦)が羅刹に姿を変えた帝釈天に試されることで、諸行無常偈を授かるという場面を描く。異様な姿の童子と羅刹とに焦点を絞った描写ばかりに人々の関心が注がれるが、図像の観点からみた本図は、実に複雑で多様な意味を孕んでいる。雪山童子は一見珍しい画題にみえるが、従来美術史ではあまり注目されていない御伽草子『釈迦の本地』を視野に入れると、蕭白の生きた江戸中期には既に雪山童子の場面を描いた絵巻や絵本、および版本が数多く流通していたことがわかる。この『釈迦の本地』の普及を前提としなければ、蕭白の「雪山童子図」制作は難しかったとすら考えられよう。では、本図と先行作例との違いはなにか。童子の上半身は光背に囲まれており、な―22―

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