鹿島美術研究 年報第33号
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③ロマン主義時代における歴史風景画に関する研究―ミシャロン《ロランの死》(ルーヴル美術館蔵)を中心として―握することは、近世社会において写生が及ぼした広範な文化的意義を考える上でも非常に有益なことではないか。研究者:成城大学大学院文学研究科博士課程後期本研究の目的は、アシル=エトナ・ミシャロン《ロランの死》を分析することにより、1810年代後半から1820年代の歴史風景画を捉えなおすことにある。19世紀初頭の歴史風景画は、アカデミーの趣味に合わせた型にはまったものと一般的に考えられている。しかしながら、1810年代後半にはすでに古典古代を主題とし、理想美を描く歴史風景画は公衆の趣味とは乖離しており、ミシャロンといった若い風景画家たちは、アカデミーの教育を受けながらも、一般の市場を意識しながら制作をしなければならなかった。ミシャロンは、20世紀の美術史の大家であるリオネッロ・ヴェントゥーリからは「平凡な」画家と断じられ、アカデミーの理想を表現したつまらない風景画家として長らく研究の対象とはされてこなかった。だが近年、ミシャロンを含む19世紀初頭のアカデミー派の風景画家たちに対する見直しが行われている。ピーター・ガラッシは、『イタリアのコロー』(1971年)において、フランス近代風景画の先駆的存在であるカミーユ・コローと新古典主義風景画の教育との関係に焦点を当て、19世紀初頭の風景画教育の中で重要視された戸外油彩習作の実践を明らかにした。これらの戸外習作の中では、従来アカデミー派と捉えられてきた風景画家たちが、戸外で写実的に自然を描き、光の効果を捕えようとしていた。彼らの完成作である歴史風景画では、自然に基づいてなされた習作を統合し、理想美を描くことが求められた。ガラッシの研究を契機とし、18世紀末から19世紀初頭にイタリアで盛んに行われた「近代的な」戸外油彩習作に関心が向けられることなり、多くの展覧会が企画され、この時代の風景画に対する研究も行われるようになった。これらの動向は、長い間忘れられていたアカデミー派の風景画家を再発見することにつながった。だがこれらの研究や企画展の多くが、彼らの習作を対象にするものであり、その完成作が話題に上ることは少ない。1791年にサロンが自由応募型になり、19世紀にはその出品数が数倍に跳ね上がり、―29―鈴木一生

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