⑦藤田嗣治・1930年代の日本表象に関する研究の新聞記事の中から、『日清戦争百撰百笑』に関連した記事があるのか調査を行う。また、紙面の挿図の中には諷刺画も掲載されていた。これらを鑑みて、イメージソースとなりうる記事を精査し、さらに、新聞紙面の諷刺画に類似した図様があるのかについて調査をし、新聞記事の内容と合わせて、『日清戦争百撰百笑』のイメージソースを明らかにする。③最後に、日清戦争前後の諷刺画に関する清親の画業をまとめる。『清親ポンチ』の発表や、「団団珍聞」への入社など、清親は明治14年以降、積極的に諷刺画を描いている。この時期の諷刺画を調査することで、ここで培われた表現がどのような形で『日清戦争百撰百笑』に影響されているのかについて明らかにする。これら3つの視点から、『日清戦争百撰百笑』における清親の諷刺表現について考察を試みる。研究者:秋田県立美術館学芸課長藤田嗣治(1886-1968)は、東京美術学校卒業後、1913年に渡仏。1920年代のパリにおいて、乳白色の裸婦像で一躍脚光を浴び、エコール・ド・パリの寵児として活躍する。1931年にパリを離れ、約2年間、中南米を巡遊し、日本に帰国。その後、戦時下を含む約16年の日本滞在を経て、1950年にパリに戻る。画風は生涯を通して変容するが、主題展開も同様で、渡仏まもなくは風景画や人物像、パリでの絶頂期は裸婦や上流階級の肖像画、中南米の旅の途上は各国の民族を描き、日本滞在期は日本的な主題と戦争画に取り組む。戦後、フランスに戻ってからは子どもと宗教画を画題の中心とした。パリではじめた大画面への挑戦は1933年の帰国後も続けられた。群像表現の大構図という点は、パリと日本滞在期ともに共通するが、日本で制作した壁画は民族的な主題へと転換を見せる。その代表的な作例が、ブラジルを描いた壁画《大地》(1934年)と、秋田を描いた壁画《秋田の行事》(1937年)である。《秋田の行事》は、依頼主である秋田市の平野政吉が居住する商人町の四季折々の祭りや年中行事、暮らしが画面に展開するとともに、秋田の産業を表すモティーフと歴史を暗示するモティーフも描―映画「現代日本」と壁画《秋田の行事》を中心に―原田久美子―35―
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