受胎告知図に「幼児キリスト」が最初に描かれたのはイタリアであったが、のちにそのモチーフは、受胎告知図が花開いた15世紀のフィレンツェでも、ヴェネツィアやマントヴァといった芸術振興に力を入れた地域でも取りいれられなかった。しかしドイツでは「十字架を背負った幼子」を伴う多数の作品が生まれている。ヴェローナの聖アナスタシア聖堂には、ファルコネットによる一角獣狩りをともなう受胎告知がリュネットの壁画として描かれているが、これは神聖ローマ帝国軍の占領下で、ドイツ人が注文したものであるため、ヴェローナ生まれのこの画家の自主的な意向ではないと考えられる。それではなぜイタリア生まれのこのモチーフが、ドイツで人気を博したのか。ここから幾つかの仮説が立てられる。幼子イエスを描く受胎告知には、同時に神秘的な一角獣狩りが描かれることが多い。ガブリエルを狩人とする形式の、一角獣を伴う受胎告知図には、「十字架を背負った幼子イエス」の他にも、しばしば登場するモチーフが幾つか存在する。たとえば、「閉ざされた門(エゼキエル書44章)」や「ギデオンの羊毛(士師記6章)」などがあげられるが、これらは中世ドイツの吟遊詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの三位一体詩に見られるという。同様に幼子のモチーフもドイツと関わりの深い宗教的抒情詩に基づくものであったため、この地域に普及したのではないか。イタリアで普及しなかった理由については、以下の事が推測される。人文主義の影響を受け、遠近法を取り入れたより自然な宗教画を好み、『人間の救済の鏡』のように、予型論を示す教科書的なモチーフを織り交ぜた宗教画から脱却していったイタリアでは、こういった図像は受け入れられなかったのかもしれない。さらにこうした図像がイタリアで踏襲されず、ドイツに波及していく過程には、宗教改革運動も一役買っているのではないか。イエスがすでに完全な存在として母体に入る様は、ある意味マリアの聖性を否定することになる。福音書だけをよしとし、マリアはあくまでも生みの母であってその存在を容易に神格化しないプロテスタントにとって、このような図像に対しあまり抵抗を感じないかもしれないが、カトリック勢力にとっては、神の母の地位を脅かすものであり、神の子イエスが「人として受肉した」ことを否定することになる。筆者は、宗教改革時に変化するカトリックとルター派の(あるいはプロテスタントの)宗教画に対するアプローチの変化という大きな流れの中で、受胎告知に挿入され―37―
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