鹿島美術研究 年報第33号
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⑮北魏平城時代の石刻資料に関する調査研究―書様式と造形、機能に注目して―研究者:早稲田大学會津八一記念博物館助手本研究の目的は、従来あまり顧みられてこなかった北魏平城時代の石刻資料を網羅的に実見調査し、新出土資料を踏まえて新たな北魏書法史像を模索することにある。特に、平城時代の漢文化の受容が石刻資料の上にどう現れてくるのか、という点をポイントとする。清朝の著名な金石学者、阮元(1764~1849)は「南北書派論」において、南朝と北朝は全く異なる書派に連なるという説を提唱した。この影響は根強く、龍門造像記は北朝に固有な書様式とする説が長く受け入れられてきた。しかし、近年では南朝領域からの出土資料の増加により、南北の書に大差はないこと、さらに南から北へと書様式が伝播したことが明らかにされつつある。こうした最新の研究成果を受け、その前段階に当たる平城時代の書についても見直しが迫られている。当時期の書は「保守的」「古朴」「雄渾」と先行研究では評され、前代の五胡十六国時代の延長線上にあると指摘されてきた。しかしながら、新出土作例には早期の段階より同時期の南朝の書様式にかなり類似した作例も見受けられ、旧来説を是正する必要がある。本研究では肉筆資料ではなく石刻資料に対象を限定した。石に刻まれた銘文は、原則として後世に残ること、衆人の目に触れることを前提に刻まれたものである。特に、大型の石碑は公共性が強く、そこに刻まれる書は時代を代表する能書家が筆をとった。当該時期には四基の石碑が確認され、そのうちに太武帝東巡碑(437)と文成帝南巡碑(461)という皇帝巡行碑が二基含まれる。巡行碑とは、巡行先の土地で皇帝の治世を称えるために臣下が立てた碑である。この二碑は、作行きもよく、皇帝が関与した中央作として特に重要な作例である。平城時代に正統とされた書様式の基準はここに求めることができよう。そもそも石に文字を刻み残す、という営為は長い伝統をもつ漢族の文化である。なかでも、皇帝の治世を称える巡行碑は、秦の始皇帝の七刻石を嚆矢とする実に中華的なモニュメントといえる。非漢族である鮮卑皇帝の巡行碑が存在するということ自体が、実は彼らの漢化の深まりを端的に示している。これら巡行碑はどのような意図をもって立てられたのか。碑文内容や立碑のタイミング、立地などから制作背景を探ることが可能である。そうした周辺事情から平城時代の北―47―徳泉さち

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