鹿島美術研究 年報第33号
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⑯ヴィクトール・オルタの室内装飾―伝統と革新―魏国家が石碑という造形物をいかに受容し、機能させていたのか、また観者にどのような効果をもたらしたのか、考えてみたい。筆者は、石刻資料のなかでも特に石碑という造形物が社会で果たした機能に着目してきた。石碑は漢代に出現して以来、現代に至るまで営々と制作され続けてきたわけだが、時代や地域、立碑の主体によりその機能は多様である。しかしながら、優れた文章と書が刻まれるべき造形物であり、立碑者の文化レベルを如実に映す鏡であることはいつの時代も変わりはない。そうした特質を踏まえると、南北朝時代、特に北朝(非漢民族による王朝)の石碑には興味深い機能が見出せる。筆者は以前、北斉において、王朝の正統性の顕示や文化的な劣等感を払拭するために、あえて石碑に復古的な書体を採用した事例を論じたことがある。おそらく、北魏王朝にとって、石碑という造形物は自らの漢文化の受容度を顕示するモニュメントであったのではないだろうか。平城時代の巡行碑は鮮卑皇帝による漢族支配の正統性を目に見える形で公示するための装置として機能していたと仮説を立てている。上記のように、石刻資料全般の書様式の分析と二基の巡行碑に関する検討を通じて、平城時代の漢文化受容の様相を考察する。中国文化の精粋ともいえる石碑という造形物の機能に着目して漢化を探る視点は筆者の独創であり、石刻資料研究だけでなく、中国美術研究に一石を投じるものと自負する。研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程ヴィクトール・オルタ(1861~1947年)は19世紀末に流行したアール・ヌーヴォー建築の先駆者として知られるベルギー人建築家である。オルタは調和のとれた装飾空間を実現するため、邸宅ごとに家具をデザインし、その徹底した制作態度は、当時、高く評価された。本研究の目的は1893年から1902年頃までに設計された家具を中心に、彼の室内装飾(建具、壁画など)の制作に対する思想を考察することである。この10年間は《タッセル邸》《ソルヴェイ邸》《ヴァン・エートヴェルド邸》《オルタ邸》などの代表作が生まれ、オルタの才能が最も花開いた時代である。彼はこれらの邸宅のために多くの家具を制作したほか、自由美学展やトリノ国際装飾美術博覧会にも家具を出品している。―48―小田藍生

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