鹿島美術研究 年報第33号
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て、近代画壇において専業的女流画家が果たした役割の概観は把握され、確固たる領域の一つとして確立したと言えるだろう。以降、女子美術大学による同大学卒業生の意欲的なリサーチをはじめ、女流画家研究の裾野は着実な広がりを見せてきたが、現状として本格的な個別的アプローチ、および再評価の途上にある女流画家、特に女流画家の数が増大した大正・戦前期の画壇で一定の評価を得ながら、第二次大戦間・戦後の混乱期の中で中央画壇に地場を失い、歴史に埋没した女流画家は未だ多数存在しており、またその資料の散逸・埋没が進んでいることに留意しなくてはならない。2015年、実践女子大学香雪記念資料館と美術史学会の主催によって「女性と美術」をテーマとしたシンポジウムが開催されたのをはじめとして、近年、女流画家に対する注目は一層の高まりを見せているが、こういった埋没した画家に対するアプローチおよび資料収集を積極的に行い、蓄積していくことは、近代画壇における女流画家活動の実態をより明確にしていくためにも、近代美術史研究における急務の一つであると考える。これに対し、本研究では女子美術学校を卒業後、寺崎廣業、松岡映丘に師事し、特に映丘門下の異色の女流花鳥画家として、大正から昭和初期の官展で入選を重ね、戦後は中央画壇と一線を画して茨城画壇での活動を続けた女流画家・長山はく(1893~1995)を取り上げ、その画業の綿密な調査に加え、映丘門下として、また女流画家として見えて来る諸問題を考察していく。例えば、映丘一門を主軸として展開された大和絵復興運動における長山の位置、官展対在野という視点、東京美術学校改革とその影響、抽象絵画の登場と画題の混乱、中央画壇と地方画壇の関係、戦前戦後の社会状況の激変などである。このような映丘門下の女流画家としての長山を取り巻く状況・事象を多角的、多義的に論じ、近代画壇における長山の具体的な位置づけを明確にすることで、近代女流画家の多様な活動の在り方を浮かび上がらせ、女流画家研究の裾野を拡張する一助となることを目的とする。長山の画業は、戦後、中央画壇から退いたことも一因し、近現代美術史上で顧みられる機会は、現在において乏しいと言わざるを得ない。しかし、一貫して花鳥(草花)という一つの主題に挑み続け、川合玉堂の推薦により北白川宮家の日本画講師も務めるなど、官展女流画家として高い評価を得ていた点には、野口小蘋、上村松園ら代表的女流画家の画業に追随するものがある。また、長山の画家としての画業遍歴は、近代における女流画家活動の一例であると同時に、戦火によって近代美術史上における―53―

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