鹿島美術研究 年報第33号
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と竹内栖鳳である。応挙が江戸期に創始した写生画の伝統が、円山四条派という流派によって受け継がれ、京都の日本画を代表する特徴となったことはつとに知られる。また栖鳳は写生の伝統を保守すると同時に古画の模写や西洋の絵画表現なども参考にして、流派をこえて自己表現を達成し、日本画の近代化を達成したとされる。このように従来応挙から栖鳳への流れが、近世から近代へ、新旧交代の動きとして語られており、両者の作品もよく知られている。ただし、応挙が主に活躍したのは18世紀の後半であり、栖鳳が頭角を現したのは19世紀末である。この応挙と栖鳳の間、19世紀の京都画壇には実際には多くの画家たちが存在する。本研究で着目するのは、このうち、明治10年代~20年代である。この時期は激動の幕末を経て旧来の価値観が解体され、新しい画壇が生まれた開化期であり、混沌の中で日本画の近代化が模索された転換期として重要である。しかし、従来この時期の画家たちに対して個別の作品考察が多くなされることはなかった。明治維新によって美術にまつわる制度が大きく転換し、画家たちは絵画探究の一方で政治や近代教育などに積極的に関わっていった。それゆえ、画家の政治的・社会的活動に注目が集まり、制度論などにおいて画家の名前が挙げられることはあったが、作品自体が注目されることはあまりなかったのである。そんな中、原田平作氏による著書『京都画壇江戸末・明治の画人たち』(アート社出版、1977年)は19世紀の画家の作品を総合的に紹介、検討を行っており、作品作家論の視点からの研究として先駆的といえる。これにより京都画壇の近代化を考察するために極めて重要であると思われる画家が多数紹介されたが、それ以降も研究はあまり行われず、研究者の間でも知られていない画家が多い。本研究で取り上げる久保田米僊(1852-1906)もまた、そうした中にあって極めて知名度の低い画家である。米僊は第1回内国勧業博覧会時には京都出品人の総代を務め、明治22年のパリ万博で金賞を受賞、天覧揮毫も果たしており、明治期京都画壇を代表する画家であった。米僊研究の価値は、応挙から栖鳳に至る京都画壇の細やかな変遷を検討し、近代化の実態をより明らかにできることにあるが、特に米僊の作品は近代化を象徴する多くのテーマを含んでいる。例えば、流派解体に伴う前衛性の表出についてである。米僊が学んだ鈴木百年は江戸後期にあって特定の流派に属さず、円山四条派や岸派など諸流派の長所を取り入れて独自の画風を築き、幕末明治に人気を博した京都画壇の新興勢力であった。ここにおいて、流派様式などの特徴が希薄化し、作家の個人的作風が前面に出るようになったことは近代日本画のさきがけといえるが、百年の制作姿勢を学んだ米―59―

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