近代絵巻の基礎的研究―前田青邨を中心に―的としているが、考察の手段としての図像復元もまた成果の一端と考えている。西域美術の全体像を理解するためには、現存する壁画の図像を改めて総合的に整理分析し、画題比定と共に基礎資料として提示することが望まれよう。こうした大規模な研究に向けた端緒として、本研究を位置付けたい。キジル石窟における仏伝図壁画の図像解釈は、様々な方向に大きな可能性が予想される。西域美術研究の進歩のみならず仏教美術史全体、ひいては世界共有の文化遺産としての明確な位置付けなど、幅広く多大な貢献となることが期待されるのである。研究者:福井県立美術館学芸員椎野晃史本研究は、展覧会芸術をめぐる研究の一環として、巻子という絵画のフォーマットに注目し、近代における絵巻制作の意義とその造形的特徴を検証し、展覧会芸術というコンテクストの中で生成された造形性について考察することを目的とする。絵巻は、展覧会制度の導入における鑑賞形態の変容と、美術をめぐる西洋的な価値観の移植によって、いくつかの重要な変化が齎された。例えば、物理的なフォーマットの変容(巻子装から額装・軸装へ)、能動的鑑賞から受動的鑑賞(私性から公性)への移行、絵と詞の分離によるイメージとテキストの互換性の喪失が挙げられる。これらの変化は自律的ではなく、上記のとおり外的圧力によるものであるが、その顕著な例は明治15年(1882)に開催された第1回内国絵画共進会における出品の規定である。ここでは出品の形状について「出品ハ必ズ額面ニ仕立ツルカ又ハ裏打ヲナシ、枠ニ張リテ差出スベシ。但、掛幅、巻物若クハ帖等ト為シテ出品スルヲ許サズ」と厳格に定めている。出品に枠を必要とするこの規定は、巻子という形状そのものを否定している。例えば、観山の絵巻制作は最も早く、明治33年(1900)に「修羅道絵巻」(第8回日本絵画協会・第3回日本美術院連合絵画共進会)、明治41年(1908)に「大原御幸」を出品しているが、当初「修羅道絵巻」が額装で、「大原御幸」は掛幅装であった。また岡倉天心と小山正太郎の論争に代表されるように、書に排他的であった黎明期の展覧会において、絵と詞の分離は必然であり、事実詞書を伴わない絵巻が多い。詞書の消失によってテキストに依拠しないイメージの自立が求められており、主題選択―64―
元のページ ../index.html#79