葛飾北斎画『新編水滸画伝』の研究究はみられず、模刻の背景や経緯に関しては検討の余地が多く残されているのが現状である。これまでに筆者は、8世紀半ばに唐から来日した鑑真が建立した唐招提寺の美術及び歴史を中心に研究を継続することで、日本における外来文化の受容について考察を進めてきた。さらに足立区立郷土博物館勤務時には、同区内の仏像悉皆調査を行い、その成果をもとにした展覧会事業を担当し、江戸近郊地域に根付いた仏教美術の様相も提示している。その悉皆調査の中で、江戸時代中期の制作と推定される清凉寺式釈迦像(以下、足立区像)を発見して調査を行ったところ、同像の模刻は清凉寺像の江戸出開帳に関連する可能性が高いことを知り得たのである。斎藤月岑撰『武江年表』(19世紀)などの記録によれば、清凉寺像の出開帳は元禄13年(1700)5月に護国寺を会場にして初めて行われ、その後は会場を回向院に移して万延元年(1860)5月まで都合10回に及んでおり、会場には清凉寺の寺宝も陳列もされて常に盛況であったという。したがって、江戸市中やその周辺地域では、この清凉寺像の出開帳が模刻像の制作に影響を与えたであろうことは想像に難くない。このことは模刻像ではないが、すでに奥健夫氏によって出開帳との関わりが示唆されている港区承教寺蔵「英一蝶筆釈迦如来画像」も同様であったと考えられる。というのも、足立区像や英一蝶本には原像である清凉寺像には見られない形状的な特徴があり、それが江戸時代にやはり出開帳を契機につくられたとみられる清凉寺像の版画からも確認できるからである。そこで、東京都内に現存する近世の清凉寺式釈迦像を調査するとともに、清凉寺像出開帳にともない作成されたとみられる版画などの関連資料についても調査を行い、両者の関係性について検討することで、教義や特定の教団の影響下のもとで広がりをみせた中世の模刻とは異なるであろう近世の清凉寺像の模刻の意義や背景について総括的な考察を行いたい。そしてこの研究によって、近世都市部における仏教美術の受容と伝播について具体的に明らかすることで、いまだ未着手の問題が数多く残る近世仏教美術史の進展に寄与したいと考える。研究者:公益財団法人墨田区文化振興財団学芸員葛飾北斎には、水滸伝の翻訳に挿絵を描いた『新編水滸画伝』という作品がある。―66―山際真穂
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