鹿島美術研究 年報第33号
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逸見(狩野)一信筆五百羅漢図における梵土表象の調査研究の表現を取り入れつつも、これまでにない視点で石湖を表出した作品も生み出される。本研究では、こうした各々の画家の石湖図の比較検討、関連する文字史料の精読を通して、その背景にあった意思などから、それぞれの石湖表象の相異の意味を考察する。また筆者はこれまでの研究の中で、文徴明が、文人と名勝の相互不可分の関係に思いを向け、自身の立場を、詩詠等の営為によってその地の名声を高め、後世に伝える文人と自覚したうえで、石湖図を制作していたことを明らかにしてきた。そしてこうした制作態度が、後の呉派文人にも継承され、石湖図に限らない次代の名勝図流行を牽引したと考えられる。以上、石湖図をめぐる考察を通して、後世の画家が、文徴明の画技と思想をふまえつつ、いかにそれを自身の作品の中に取り込み、発展させていったかを明らかにする。それによって、文徴明の正統を継ぐ画家とそうでない画家など、呉派文人画家の位置付けをより明瞭なものとして提示することができるだろう。それは美術史において名を知られながらも、未だその実態について十分な考察のなされてこなかった呉派文人画壇について、画技と思想の継承という観点から明らかにすることに繋がると考える。研究者:長崎歴史文化博物館学芸員江戸時代の仏教絵画は、総じて中世に比べ技術の低下および思想的な正統に乏しく、一概に大衆化していると言われてきた。しかし、逸見(狩野)一信筆五百羅漢図は、南宋時代に制作された五百羅漢図を中心とする東アジアの五百羅漢図における伝統から大きく逸脱している。筆者は近年の研究によって、逸見一信筆五百羅漢図が近世後期に制作された仏教絵画でありながら、これまで考えられてきた大衆化という側面を破り、増上寺の学僧によって戒律遵守という仏教的に至極重要な意義が付加されていたことを明らかにした。本作に付随されたこの教義に照らせば、本作を描いた一信が仏教的に正統な絵画を描くという意識をもって制作に臨んだことが当然考えられる。そのため、再度、本作の造形的な意味について考察する必要がある。本作の造形的意味内容について考察する前提として、筆者は、既に戒律の文脈に照らされ視覚化された側面について以下の点を明らかにしている。―73―白木菜保子

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